# 史料

文禄二(1593)年

※ []内は茶々姫の居場所

二月[名護屋城?大坂城二の丸?]
十七日 大坂城二の丸の侍女(「大坂二ノ丸御城二ノ丸御局」「大坂御局」)、吉田兼見に祈祷の依頼あり。兼見、これに返答する。 兼見卿記
五月[大坂城二の丸]
十八日 寧(「北政所」)、秀吉のため(「太閤御祈祷云々」)に興福寺へ奉納する。 多聞院日記
二十二日 秀吉(「大かう」)、寧(「おね」)へ朝鮮出兵について音信する。また、返し書きにて茶々姫(「にのまる殿(二の丸殿)」)の懐妊について返信していることから、寧より茶々姫懐妊の報が秀吉に届けられたようである。
自分の子供は鶴松(「つるまつ」)ただ一人であると、鶴松への断ち難い思いを記し、今度の子どもは茶々姫だけの子としようかと思う、とお寧に綴っている。
(返書)この間は、すこしかいき(咳気)いたし候まゝ、文にて不申、文のかきはし(書初)めにて候。又にのまるとの(二の丸殿)みもち(懐妊)のよしうけ給(承)候。めてたく候。われ/\は小(子)ほしく候はす候まゝ、其心へ候へく候。大かうこ(子)は、つるまつ(鶴松)にて候つるか、よそへこし候まゝ、にのまる殿はかりのこ(子)にてよく候はんや。
米沢文書(『太閤書信』)
七月[大坂城二の丸]
十三日(晴) 茶々姫(「大坂御袋」)出産予定月のため、堂上方の音信を停止する触が発せられる。 時慶記
十六日(晴) 茶々姫(「御袋」)が大坂にて姫君を出産したという噂が京で流れる。 時慶記
八月[大坂城二の丸]
三日(曇) 茶々姫(時慶「浅井氏女」)、大坂城(言経「大坂御城」、鹿苑「大坂」)にて拾丸(後の秀頼/時慶「大閤若公 秀頼公と後に号」/言経・鹿苑「若公」)を出産。 時慶記・言経卿記(同月六日条)・鹿苑日録
秀吉(大かう)、名護屋陣中より寧(「おね」)へ手紙をおくる。九月(八月の誤りか)十日ごろに名護屋を発ち、二十五日ごろには大坂城の寧に会えるだろう、と記す。また、茶々姫(「にのまる殿」)の出産を同日中に祝っているが、寧が出産を知らせる早馬を秀吉に飛ばしたのだろうか。 山県公爵家文書(『太閤書信』)
四日 秀吉(「太閤さま」)、拾丸(「若君」)誕生の注進を聞く。秀吉、その赤子を拾子(捨子)として「拾」(「御ひろいさま」)を名付ける。 太閤さま軍記のうち
九日 秀吉(「大かう」)、名護屋陣中より寧(「おね」)へ手紙をおくる。赤子の名は「ひろい」とすること、下々の者まで「ひろい」の名に「お」をつけぬこと、生まれてすぐ、寧の手配で松浦讃岐守重政(「まつら」)に拾わせる形を取らせたことが記してある。
(返し書き)かへす/\、こ(子)のな(名)わひろい(拾)と申候へく候。こなたを二十五日にい(出)て可申候。やかて参候て御めにかゝり、御物かたり申候へく候。
はや/\とまつら(松浦)人おこ(越)し候事、まんそくにて候。そもしよりれい申候へく候。さためてまつら(松浦)こ(子)をひろい候て、はや/\と申こし候間、すなわち、このな(名)わひろいこ(拾子)と可申候。した/\まて、おのし(字)もつけ候ましく候。ひとい/\と可申候。やかて/\かいちん(凱陣)可申候。心やすく候へく候。めでたく、かしく。
  (文禄二年)八月九日
     おねへ まいる      大かう
高台寺文書(『太閤書信』)
十二日 京極龍(「京極様」)、この日の晩に名護屋を発つ。 太閤さま軍記のうち
十四日 秀吉、名護屋に寺沢広高(「寺沢志摩守」)を留守居として置き、この日名護屋を発つ。 太閤さま軍記のうち
二十五日 秀吉(「大閤」)、巳刻大坂に帰陣する。急ぐあまり二十五泊かかる道のりを十一泊で大坂に急行したという。このとき、拾丸に初めて対面したものと思われる。 兼見卿記・太閤さま軍記のうち
十二日 京極龍(「京極様」)、この日の大坂へ着く。秀吉は龍の名護屋での功績を認め、大坂城西の丸に龍のために屋敷を構える。 太閤さま軍記のうち
九月[大坂城二の丸]
三日 秀吉(「大閤」)大坂城を発ち、伏見へ上洛する。 兼見卿記
四日 秀吉、上洛して秀次と会い、日本を五つに分けてその四つを飛騨次に与えると約するという。 言経卿記(福田千鶴『淀殿』)
五日 秀吉(「大閤」)伏見城を発ち、大津へ赴く。 兼見卿記
七日 秀吉(「大閤」)大津を発ち、伏見城へ帰る。 兼見卿記
二十七日 秀吉、寧・前田利家夫妻(「彼〔羽柴筑州〕内義各」)を伴って有馬へ湯治に出かける。 言経卿記(福田千鶴『淀殿』)・兼見卿記(閏九月二十七日条)
二十八日(晴) 秀次(「殿下」)と中納言局([小浜殿])の娘、清洲姫君の乳母の母が清洲姫君の御膳として賞翫を持参する。 時慶記
閏九月[大坂城二の丸]
六日(晴) 有馬へ秀吉の湯治の見舞いへ赴いた秀次より寧(「北政所殿」)・茶々姫(あて先は「大坂二丸殿つほねかた」/大蔵卿局だろう)へ書状を送る。 駒井日記(同月十一日条)
七日 秀吉、有馬より大坂城に戻る。 駒井日記(福田千鶴『淀殿』)
八日 寧、有馬より大坂城に戻る。 駒井日記(福田千鶴『淀殿』)
十日(雨) 秀吉(「大閤」)女房衆竹(「御竹」)を不祥事で捕縛する。(関連記事:同年十月十九・二十日条) 駒井日記(同月十二日条)
十二日(晴) 秀次より寧(「北政所殿」)・茶々姫(「二丸様」)への書状が夜前に到着する。 駒井日記
二十七日 秀吉(「大閤」)伏見を発ち、洛中に入り大仏普請を監督する。その後、前田利家邸(「羽柴筑州所」)へ渡る。 兼見卿記
十月[大坂城二の丸]
一日(雨) 秀次(「関白様」)、秀吉が拾丸(「御ひろい様」/後の秀頼)と清洲姫君(「姫君様」)との縁談を望んでいる旨を前田利家夫婦に聞く。 駒井日記
茶々姫がこの日に秀吉へ女房不行跡について報告したことが、二十五日発給の秀吉書状から分かる。 大橋文書(『太閤書信』)
三日 秀吉(「大閤」)、参内する。「今度別而御機嫌之由各被申訖」と勧修寺晴豊(「勧修寺」)が吉田兼右に評したのは拾丸の誕生を報告したためか。
その後、三日、五日。七日、十一日と能を興行する。
兼見卿記
四日(晴) 寧(「北政所様」)・茶々姫(「二丸様」)から、豊臣秀次へ閏九月六日の返信が届く。(→茶々姫音信の内容はこちら 福田寺文書
十四日 秀吉(「大閤」)、前田玄以(「民部法印」)を訪ねる。 兼見卿記
十五日 この日、秀吉(「大閤」)へ諸家礼あり。 兼見卿記
十六日 秀吉(「大閤」)、前田玄以邸(「民法」)にて能を興行する。 兼見卿記
十九日(晴) 秀吉の名護屋在陣中、大坂城で留守を預かっていた女房衆の不行跡(男女問題や金銭問題)が発覚する。(関連記事:同月二十日・同年閏九月十日条) 時慶記
秀吉(「大閤」)伏見城を発ち、大津へ赴く。 兼見卿記
二十日(雨) 大坂にて茶々姫の家中女房衆(「大坂若公ノ御袋家中女房衆」)が秀吉の留守中に不祥事を起こし一両日中に成敗されることが時慶に伝わる。(関連記事:同月十九日・同年閏九月十日条) 時慶記
二十一日(時雨、晴陰) 秀吉、不祥事の女房衆の処刑を命じる。(参考記事:同年閏九月十日・十月十九日・二十日条) 時慶記
二十五日 秀吉、同月一日の茶々姫(「おちゃ/\」)書状に返信する。拾丸の様子や授乳の具合について尋ね、侍女不行跡ののために自分は機嫌が悪いので、処分が済み次第茶々姫のもとへ訪れるつもりであるが、茶々姫は何も気をもむ必要はないという旨の内容である。このことから、おそらく一日の茶々姫書状には侍女不行跡について気に病む内容があったものと思われる。
茶々姫の侍女が処罰されていながら、茶々姫には何も嫌疑をかけられておらず、監督責任も問われていないのは、茶々姫の分娩前後に起こった不行跡だからであろうか。
文禄二年十月 豊臣秀吉音信(大橋文書『太閤書信』)
大橋文書(『太閤書信』)
十一月[大坂城二の丸]
一日 秀吉(「大閤」)先日より伏見に滞在との記録。 兼見卿記
四日(晴) 秀吉(「大閤」)に正式な暇を申しださず夫を持ち子を産んだ女房の処刑が実行される。 三条橋詰にて子と乳母は煮殺され、当人夫婦は土に埋められ首を七日かけて竹鋸刑に処される。(参考記事:同年閏九月十日・十月十九日・二十日・二十一日条) 時慶記
二十九日 秀次、清洲姫君(「姫君様」)の為の祈祷を東寺宝厳院へ依頼。 駒井日記
十二月[大坂城二の丸]
九日 午後三時頃(申刻)、寧(「北政所様」)・茶々姫(「二丸様」)から見舞いの音信が秀次へ届く。 駒井日記
十日 秀吉(「大閤」)、この日から十二日にかけて三河吉良を発ち、伏見城へ帰還する。 兼見卿記
二十六日 秀次、秀吉(「大閤様」)・寧(「北政所様」)・拾丸(「御拾様」)・茶々姫(「同御袋様」)へ歳暮を送る。
内容…秀吉へ呉服三重・御太刀一腰・馬代金子二十両・同装束、寧へ呉服二重、拾丸へ呉服五、茶々姫へ呉服二重
駒井日記


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