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# 書状・書簡

≫ 茶々姫書状

文禄二年十月 豊臣秀次宛(『福田寺文書』)

《読み下し》
御ゆふさいまいらせ候て、はやきよすまてくわんきよ成候よし御申候て、 御ねん此の御ふミ御うれしさめてたく思召させをハしまし候、 大かうも一たん御きけんよく御入候て、このほとハしゆらくに御成候、
ひめ君も御そくさいの御事にて御入候よし申候、 やかて御上らくの御事まちまいらせ候、 返々御文御うれしく思ひまいらせ候、 なをめてたき御事、かさね/\申うけ給候へく候、かしく、
人々御中
まいる  申給へ
《訳》
細川幽斎(藤孝)より、あなたさまがはや清洲までお帰りになるという丁寧な御文を頂きました。
ご無事をおめでたく思い、このお手紙が嬉しくありがたく思っております気持ちをお伝えしたく思います。
太閤殿下も一段とご機嫌がよくいらっしゃり、この度は聚楽第にお成りになりました。

清洲姫君も御息災でこちらにい上洛されたをお知らせいたします。
やがてあなたさまも御上洛なさるとのこと、首を長くしてお待ちしております。
かえすがえす、あなたさまのお手紙を嬉しく思っております。
また慶事についてしかと相談いたしましょう。

《解説》
この書状に登場する「ひめ君」は秀頼の婚約者であった豊臣秀次の娘である清洲姫君のことです。 秀次は秀頼と清洲姫君との縁談に始めは警戒したといいますが、その後その態度は軟化していきました。
そもそも一派に茶々姫と秀次とは対立する存在として見なされていますが、浅からぬ縁を持っています。

秀次ははじめ治兵衛といい、農民の子として生まれました。
しかし叔父秀吉が部門として出世する中で、そのコマとして茶々姫の実家である浅井家の家臣であった宮部潤継に養子に出されました。
そのときに面識があったかどうかは不明ですが(そもそも浅井家攻略のための一手なので無かったでしょうけれども) 後々にそのことに縁を感じたのでしょうか。 または故郷である近江の領主として後々評判が高くなる秀次の手腕を認め買っていたのでしょうか。 (今でも近江八幡城付近では名君として語り継がれています) 当時の財政的に相当困難だった近江経営に取り組む秀次に、茶々姫は手を差し伸べていました。

また小田原攻めの時には陣中見舞いをし、手紙の文面で伺われるように幾度も手紙を交わし、 その間柄は晩年の悲劇など予想も出来ない良好なものだったのです。

秀吉に対して身の危険を感じた秀次の態度が軟化したのは、茶々姫の変わらず好意的な態度に安心し未来を楽観できたからかもしれません。 少なくともこのときの茶々姫と秀次は相親同士になるものと信じて、文を交わしていたのでしょう。 その辺りの交流から秀次事件を見ると、見方が自ずから変わるかもしれません。 茶々姫が秀次一族処刑に反対し、お伊万の方(駒姫)を実際に救出しようとしたことも不思議ではなくなります。


補記 豊臣秀次について
生年: 永禄11(1568)年
没年: 文禄4(1595)年7月15日

名: 治兵衛、萬丸
字・通称: 小一郎、孫七郎
初諱: 信吉
戒名: 瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀

父:三好弥助(後に長尾武蔵守吉房、もしくは木下姓)
母:秀吉の同母姉とも(智、瑞龍院日秀)、父は三好弥助(後に長尾武蔵守吉房、もしくは木下姓)。

始めは農民風の名前で治兵衛と言ったそうです。 幼名として万丸(よろずまる)という名が残りますが、おそらく武家に養子へ行くに当たって後に作られたものでしょう。
親族の少ない秀吉の縁者として重宝され、近江攻略の時には宮部潤継へ養子に入り、その後には三好康長へ改めて養子に出されました。 鶴松の死後には、秀吉の養子として関白にまで登ります。 しかし秀頼誕生を期に秀吉との関係に齟齬を来し高野山へ追放され同地で切腹させらました。

首は三条河原に晒され、その後の妻妾子女の処刑は凄惨を極めたといいます。
お寧や茶々姫たちは揃って妻妾子女の処刑に反対し、 実際に茶々姫はまだ側室となって間もないお伊万の方(最上駒姫)は実際に救出しようと試みましたがそれは叶いませんでした。
後年、秀次が茶々姫の夢枕に立ったという話があります。 そのとき茶々姫は懇ろに供養の祈祷を行ったそうです。 よく言われるように、秀次が秀頼に害をなすことを恐れ未来を悲観したのでしょうか? それとも親しく交流していた秀次の無念の死を哀れに思ったのでしょうか? せめて秀次の縁者だけでも助けられなかった自分の無力を嘆いたのでしょうか…


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