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# 書状・書簡

≫ 茶々姫宛て書状

文禄二年十月 豊臣秀吉音信(大橋文書『太閤書信』)

《読み下し》
かえす/\、ひろいにち/\(乳)をよく/\のませ候て、ひとね候へく候。ち/\たり候やう、めしをもまいり候へく候。すこしももの(物)きにか(懸)け候ましく候。以上。
たかのとり(鷹の鳥)五つ・みかん(蜜柑)のひけこ(髯籠)三つ進之候。
一日は文給候。返事申候はんところに、いそかわしき事候て、返事不申候。おひろい(拾)なをなをけなけ(健気)に候や。ちゝもまいり候や。やかても参申候はんか、きうめい(糾明)をいたし候て、参可申候。そなたへわかみ(我身)こし候はゝ、かうはら(業腹)た(立)ち候はんまゝ、まつ/\こなたにてききとゝけ候て、すまし候て参可申候。かしく。
   廿五日
               ふしみより
   おちゃ/\         大かう
《訳》
(返し書)くれぐれも拾に乳をよく飲ませ、怠りなく養育に努めてください。乳が足りるように、あなたもしっかりと食事をしてください。あなたは何も心配する必要はありません。 鷹の鳥五つと髯籠入りの蜜柑を三つお送りします。 一日に文をいただきました。すぐ返事しようと思っていたのですが、多忙ゆえに返事ができませんでした。お拾はますます元気でいますか。乳もよく飲んでいますか。すぐにでも会いに行きたいのですが、不祥事の糾明を終わらせてから参ろうと思います非常に腹が立っているので、今そちらへ行ってしまうといけないので、まずはこちらで詳細を聞き届けた上で処罰を済ませ、そちらへ参ります。
  お茶々へ          伏見の太閤より

《解説》
文禄二年八月三日に大阪城二の丸において拾丸(のちの秀頼)が誕生しました。 秀吉はまだ名護屋に在陣中で、秀頼が生まれ早々と大坂に帰ってきたのは八月二十五日のことになります。
つまり大坂城二の丸では主である秀吉は名護屋にいて留守、女主である茶々姫は出産に前後して取り紛れていたため、二の丸の風紀に隙があったようです。二の丸に努めていた侍女に金銭問題や男女問題で不行跡があったようです。おそらく十月一日に秀吉が受け取った書状で茶々姫が不祥事について報告し、秀吉の知るところとなったのでしょう。
この前後、秀吉付きの侍女にも男女問題で不行跡が発覚し、大変厳しい処罰を与えられていますが、これは鶴松の誕生に備えて大坂城の警備が強化されたのと同様に、拾丸出生に関連して風紀の引き締めという部分も少なからずあったのではないかと推察します。
なお、茶々姫に嫌疑や監督責任が問われていないのは、やはり不行跡が出産に前後していたからではないだろうかと思われます。
大坂城二の丸で起こった不行跡について秀吉が伏見城にて見分を行っているのは、あるいは不行跡にまつわる煩いから茶々姫・拾丸を保護しようという思惑もあったのやもしれません。
他に見るべきポイントとして、拾丸の授乳は乳母に任されていたのではなく、茶々姫自身が行っていたということがこの書状から分かります。


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