△ 小谷城の麓、清水谷全景
△ 小谷城大手門(復元)
△ 小谷城鐘丸(本丸)跡
△ 小谷城大広間。茶々姫ら長政一家が一時この地で生活していたのではないかとの説あり。奥に見えるのは鐘丸跡。
一名千畳敷という。約三五アールの広さである。主殿の跡と推定されその昔多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。礎石、貨銭、陶器片、その他多数が発掘された。(解説掲示より)
△ 小谷城大広間浅井家主従供養碑(手前)及び小谷城史蹟案内石碑(奥/徳川家達筆)
△ 小谷城赤尾屋敷跡(浅井長政自刃の地)
△ 小谷城京極丸跡(浅井久政自刃の地と伝わる場所の一つ)
大永四年(一五二四)亮政が主君京極高清、高延父子を迎えた処である。天正元年(一五七三)八月二十七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され小丸の久政と本丸の長政との連絡を絶たれた。(解説掲示より)
△ 小谷城小丸跡(浅井久政自刃の地と伝わる場所の一つ)
二代目城主久政の隠居後の居所である。久政は天正元年八月二十七日信長の先鋒秀吉軍の進攻を受け鶴松太夫の介錯により四十九才を一期としてここに切腹して果てたのである。(解説掲示より)
△ 小谷城山王丸跡(ここにあった社殿が小谷寺山王社として残る)
山王権現(現小谷神社)の祀ってあったところ、海抜三九五メートルの高所にあり詰ノ丸と思われる。東南部の巨石による野づら積み石垣は興味尽きない遺構の一つである。(解説掲示より)
△ 小谷城御茶屋跡
△ 小谷城桜馬場跡
△ 小谷城中丸跡
△ 大谷市場跡(長浜市小谷郡上町)
浅井三代小谷城時代には重要な商業施設の中心であったと考えられ、武家屋敷や町間の台所までも賄っていたといわれている。
時に海産物については、若狭の新鮮な魚介類が、若狭街道を通じて届いていたという。
小谷城落城後、羽柴秀吉によって城下町が長浜城下に移されたとき「大谷市場」も同時に移された。(解説掲示より)
△ 船場辻跡(長浜市湖北町留目)
△ 彦根城西の丸
…小谷城天守を移築したとの伝承があるが、現在ではおおむね否定されている。