# 近江浅井氏
浅井長政
▽ 徳勝寺浅井長政墓(長浜市平方町)
生年: 天文十四(1545)年二月二十四日
没年: 天正元(1573)年九月一日 …古代氏族系譜集成
幼名: 猿夜叉丸(七歳で改名/『浅井家譜』)
初諱:賢政
通称(字): 新九郎(古代氏族系譜集成)、(異説)清十郎(古代氏族系譜集成)
官職: (生前)備前守(古代氏族系譜集成)、(寛永9年9月15日追贈)贈従二位中納言、(異説)正二位大納言(古代氏族系譜集成)
戒名・院号:
養源院天英宗清 …養源院、系図纂要
天英宗清定門 …高野山過去帳
天英宗清徳勝寺 …寛政重修諸家譜
(徳勝寺殿)天英清大居士 …徳勝寺
天窓芳清大居士 …龍澤寺の位牌
文英一雄 …鏤氷集
徳勝院天英宗清居士 …翁草
徳勝院天英宗清 …古代氏族系譜集成
肖像画:
高野山持明院蔵(現在は高野山霊宝館に)
…最も有名な肖像。
養源院蔵
…持明院蔵の元か。
長浜城歴史博物館蔵
…個人的に一番男前だと思います。
財団法人下郷共済会蔵
位牌: 徳勝寺(滋賀県長浜市)、養源院(京都市東山区)、常高寺(福井県小浜市)
墓所: 徳勝寺
▽ 浅井長政像(長浜市役所浅井支所
〔旧浅井町役場/長浜市内保町〕前浅井一家銅像より)
父: 浅井久政
母: 小野殿(井口阿古) …島記録、浅井三代記
異説…京極高秀女(寛永諸家系図伝)
(異説)
父:浅井高政(古代氏族系譜集成)
妻妾:
平井加賀守定武女 …浅井三代記、浅井氏家譜大成、古代氏族系譜集成
多羅尾氏(父:多羅尾道可〔四郎兵衛光敏〕)
市(小谷の方)
本念宗心大姉
弁? …『しが湖北 丁野誌 璨』、『上山田の歴史と文化』
八重(伝承)
子女:
1563 万福丸
くす女 (母:本念宗心大姉)
1569 茶々 (母:市)
1570 初 (母:市)
喜八郎
円寿丸政治? …名前は「浅井系統一覧」に登場しますが、詳細は伝わらないため実在の真偽はわかりません。
1573 督(江、小督/母:市)
1573 5/3 正芸(母:弁?)
1573 七郎 (母:八重) …伝承
略歴
▽ JR河毛駅前浅井長政公銅像
六角氏の膝元で誕生。生まれたときより8年間人質生活を強いられる。
内政重視の久政に不満を持った家臣によって若くして盛り立てられ、半ばクーデター的に家督を相続。
当初六角義賢の偏諱を受け賢政を名乗ったが、六角氏との絶縁を境に長政を名乗る。
このとき、妻に迎えたばかりの六角氏家臣平井定武の女を送り返してた。
織田氏と同盟を結ぶ際、長年にわたる入魂の朝倉氏を攻めないことを約す証として、信長は妹の市を娘分として嫁がせた。
しかし将軍義昭の要請によって朝倉氏は織田軍と対立。長政と久政は朝倉に与し織田軍と衝突し、浅井宗家は滅亡する。
このとき市は人質として害されることはなく、娘三人と共に織田家へ返された。
信長はその最後まで先鋒羽柴秀吉を通じて、投降すればそれなりの地位(大和一国を与えると)を約束するほど長政を惜しんだが長政は耳を貸さず、小谷城と運命を共にしたという。
略年表
永禄2(1559)年
1月、平井定武女と婚姻
4月、平井定武女を送り返し、六角に対し抗う態度を表明。賢政の名を棄て、長政と名乗る。
永禄3(1560)年
6月2日〜8月、家督を相続
8月、六角氏との初陣(野良田合戦)を勝利で飾る。
永禄4(1561)年
6月20日、「長政」の名で史料に初出。
永禄11(1568)年
春、市を妻とする。
元亀元(1570)年
4月20日、金ヶ崎で信長を急襲。
4月27日、野村合戦(いわゆる「姉川の戦い」)。
元亀3(1572)年
8月27日、久政が京極丸で自刃。
9月1日、長政自刃。享年29歳。
〔ひとりごと〕
この方個人でもとっても大好きなお方です。
優しくて美形で強くて(でも弱いところもあって)そうあるべきところは潔くて。(※ 個人的イメージです;)
立派な肖像画が残っているばかりに随分恰幅のいいイメージになっているけど、
この方はきっと猛将タイプで浅井の血統らしく長身で体格が良かっただけじゃないかなあ?
しかも当時だったら立派なイメージにするために恰幅良く描くでしょう、と思うのですが。
折角姫がお父さまを立派に残したのに、現代ではマイナス効果になるなんて気の毒。。
それにしても長浜城の備前公は本当にかっこいい!
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