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# 史料

文禄五・慶長元(1596)年

※ []内は茶々姫の居場所

一月[伏見指月城]
一日(雨) 秀吉(「大閤秀吉卿」)、旧冬より体調不良。寧と共に(同月十五日条参照)大坂(「小坂」)で年を越す。拾丸(「御拾御所」)が伏見にいるため諸大名は伏見で越年する。 義演准后日記
二日(陰、時々雨) 拾丸、大坂城にいる秀吉に新年の祝儀として爪取りの刀を贈る。(福田『淀殿』) 保阪文書(桑田『太閤書信』)
十二日(晴) 秀吉、体調不良が再発する。 義演准后日記
十三日(晴) 義演、拾丸(「伏見若君」/伏見に「秀吉公城」との注記有)に巻数並びに一折を進上する。 茶々姫(「伏見袋」)よりその返礼として義演に縮一巻・杉原二十帖を贈る。 義演准后日記
十五日(晴) 義演、井内経紹(「大蔵卿」)を使者として大坂にいる寧(「小坂北政所」)・毛利輝元(「毛利中納言」)に書状を送る。 義演准后日記
十九日(晴) 使者の井内経紹(「大蔵卿」)、帰洛。大坂の寧(「北政所」)・孝蔵主・宇喜多秀家(「備前宰相」)・毛利輝元(「安芸毛利中納言」)より義演へ返礼が届く。 加えて、秀吉(「大閤」)の体調が回復し、上洛するという噂を聞く。 義演准后日記
二十日(晩雨) 義演、秀吉(「大閤」)の不調はやはり相変わらぬ旨を聞く。 義演准后日記
二十二日(晴) 秀吉(「大閤」)不調につき、諸大名の総礼が延期される。 義演准后日記
某日 秀吉、小出秀政を使者として拾丸へ礼状、鷹の雁三竿を送る。(『淀殿』)
  • 「返々、御ゆかしく候まゝ、やかて/\参候て、くちをすい可申候、又われ/\るす(留守)に、 人(茶々姫ヵ)にくち御すわせ候はんとおもひまいらせ候、たかのかん(鷹雁)三さを(竿)を進上、」
  • 保阪文書(同上)
    二月[伏見指月城]
    十四日 秀吉(「太閤」)、本復し伏見指月城(「伏見城」)に移る。 義演准后日記(同月二十日条)
    二十日(晴) 秀頼(「若公 号御拾」)の昇殿が来月あたりに予定される。 まだ数えで四歳のため、元服せずに童形で参内し、諱も叙爵も内々に成されるとの予定。 義演准后日記(同月二十日条)
    二十七日(雨、午後晴)
  • 秀吉、伏見向島に築城を計画し、諸大名に普請を命ずる。
  • 来月予定の秀頼(「大閤若公 号御拾」)参内につき、車輪に及ぶまでがことごとく蒔絵で飾られる噂が流れる。
  • 義演准后日記(同月二十日条)
    四月[伏見指月城]
    十日(陰) 伏見に不穏な噂が流れる。 義演准后日記
    五月[伏見指月城→聚楽第内屋敷→伏見指月城]
    二日(晴) 秀吉(「大閤 秀吉公」)、拾丸(「御拾御所」)参内間近につき、勅勘を蒙っていた近衛信輔(「近衛左大臣」)と秀次事件で連座していた今出川晴季(「菊亭右大臣」)を赦免する。 義演准后日記
    六日(晴) 秀吉(「大閤御所」)、拾丸の上洛に備え、先にこの日上洛する。 拾丸(「御拾御所」)の参内は十三日か十五日、天気次第で行われるとの話。 義演准后日記
    八日(小雨、午刻晴) 拾丸(「大閤様若公 御ヒロイ」)上洛の予定も、天候不良により延引される。 言経卿記
    九日 拾丸(義演・言経:「大閤若公」)、伏見城を発ち聚楽第に入る。 伏見から聚楽第までの三里の悉くを供奉の徳川家康(「内府 江戸」)をはじめとする諸大夫で固めさせ、言語道断の美麗な様相で行われる。 茶々姫同道の可能性あり。共に一部破却後の聚楽第内屋敷に入ったか(『淀殿』)。 言経卿記・義演准后日記
    十三日(晴、時々小雨) 秀吉(言経:「大閤」、義演:「太閤」)・拾丸(言経:「若公」、義演:「御拾様」)、「長者町御殿」(言経)より参内。 父子の輿には前田利家(言経:「前田大納言」、義演:「利家大納言」)・「御乳人(言経)」(右京大夫局ヵ)・「御局(言経)」(大蔵卿局ヵ)が同乗する。
    続いて徳川家康(言経:「江戸内府」)の輿(言経:「諸大夫十三人、井伊直政〔言経:「井伊侍従」〕、布衣二人、随身兵仗四人、牛童子一人、其外侍従大勢也」)、 前田利家(但し本人は秀吉父子の輿に同乗)など四、五人の輿、浅官衆の馬が大勢続く。
    禁中にて三献、謡あり。秀吉と家康が舞を献上。
    言経卿記・義演准后日記
    十五日(晴) 秀吉(言経:「大閤」、義演:「大御所」)・拾丸(言経:「同若公」、義演:「御拾御所」)参内。 秀吉、禁中にて能を興行する。後陽成天皇をはじめ、諸家諸門跡残らず出仕する。
    拾丸より義演へ銀子二十枚が贈られる。また、禁中においては後陽成天皇へ名刀をニ腰・銀子を千枚・沈香・練貫・綿・糸・白鳥二十、良仁親王(義演:「若宮御方」)には銀子を百枚他、勧修寺晴子(義演:「国母」)・近衛前子(義演:「女御」)や局たちにも残らず進物がなされた。
    義演准后日記・言経卿記
    十七日(晴) 秀吉(言経:「大閤」、義演:「大閤」・「大御所」)・拾丸(言経:「同若公」、義演:「御拾」)・徳川家康(言経:「江戸内府」)・前田利家(言経:「前田大納言」)、禁中にて能を興行。新公家衆が招かれる。
    その後、秀吉・拾丸以下伏見指月城へ帰還。茶々姫同道か。
    言経卿記・義演准后日記
    二十五日(大雨) 伏見城において、拾丸(「御拾御所」)ならびに秀吉(「太閤御所」)へ総礼が行われる。
    諸家諸門跡並びに諸国諸大名残らず出仕し、朝廷からは勅使衆・智仁親王(「八条宮」)・九条兼孝(「九条前左大臣」)・二条昭実(「二条前左大臣」)・鷹司信房(「鷹司大納言」)・九条忠栄(「九条御方」)・鷹司信尚(「鷹司御方」)、 門跡からは近衛前久(「近衛入道准后」)・足利義昭(「将軍入道准后」)・道澄(「照高院准后 聖護院」)・青蓮院宮・妙法院宮・大覚寺宮(尊性法親王)・義演准后・聖護院宮・梶井宮・竹内宮・一条院大僧正・随心院童形・実相院童形(慈運)、諸家からは徳川家康(「江戸内大臣」)・西園寺大納言・久我敦通(「久我大納言」)・前田利家(「加賀大納言」)・前田利勝(「中納言」)・織田秀信(「岐阜中納言」)・上杉景勝(「越後中納言」)・小早川秀秋(「三原中納言」)・伝法輪公盛など、義演はこの日の様子を「日本国中の諸侍一人として出仕せざる者はなし」と記す。
    義演准后日記・言経卿記
    六月[伏見指月城]
    七日(晴) 拾丸(「御拾御所」)、祇園会を見物する。茶々姫も同行か。 義演准后日記
    七月[伏見指月城]
    十二日 この日の夜、大地震あり。この時秀吉は大庭にて寧(「政所様」)・龍(「松の丸殿」)と共におり、孝蔵主(「高蔵主」)ら(「其外上臈衆」)がこれに控えていたという。寧、龍、ここに蟄居中の加藤清正が駆けつけたことを感謝し、清正への勘気が解けるよう秀吉へとりなしたという。 清正記
    二十四日(晴) 寧(「北政所」)、この日伏見にいる記録あり。 義演准后日記
    二十四日(晴) 寧(「北政所」)、この日伏見にいる記録あり。 義演准后日記
    二十五日(晴) 秀吉(「太閤御所」)、突然上洛する。 義演准后日記
    二十六日(夕立) 義演、拾丸へ折五合・五荷、取次ぎの女房衆(大蔵卿局?伊茶局?)へ折三合・三荷など孝蔵主(「康蔵主」)などにを進物。 義演准后日記
    閏七月[伏見指月城]
    十二日 夜、京都大地震。京都の家々が倒れ、死者無数との記録。禁裏。京の寺院仏閣にも被害が及ぶ。
    方広寺の大仏は大破し、伏見指月城も天守以下大名屋敷に至るまでの悉くが倒壊し、やはり数え切れない死者が出た。
    東福寺の仏殿も傾く。 この後一ヶ月ほど余震が続く。
    義演准后日記(翌十三日条)・東福寺誌
    八月[伏見指月城]
    九日(晴) 地震大凶のため、改元の沙汰あり。 義演准后日記
    九月[大坂城二の丸]
    八日(晴) 来月の改元において、鷹司信房が上卿を務めることが決まる。 義演准后日記
    十日(晴) 義演、拾丸(「伏見御拾御所」)へ今月の祈祷巻数・菓子折を進上する。取次ぎは二位局(「二位御局」)。返礼として杉原二束・縮巻物一段を賜る。
    また、寧(「北政所」)へも祈祷巻数等を進上する。来月の改元において、鷹司信房が上卿を務めることが決まる。
    義演准后日記
    十九日(晩雨) 義演、近衛信輔を迎える帰りに聚楽第が地震により荒野となっている様を見る。 義演准后日記
    二十五日(晴) 大仏経堂にて秀吉外祖父母(「御母儀故大政所御父母 榮雲院道円・榮光院妙円」)の法要を修す。仏教八宗の僧百人により催され、貴賎群集の見物を受ける。 言経卿記
    十一月[伏見指月城→大坂城]
    十八日 拾丸、伏見指月城より大坂城へ移る。茶々姫も同道したと思われる。 (『淀殿』)

    十二月[大坂城]
    二日 秀吉、伏見木幡山城より秀頼宛てに書状を送る。

  • 慶長元年十二月 豊臣秀頼宛秀吉書状(安田文書)
    かへす/\御ゆかしさ申はかりなく候間、やかて/\
    さいまつ(歳末)に参候て可申候、御かゝさま茶々姫)へも文にて
    可申候へとも、御心候て給候へく候、めてたくかしく、文給候、
    御(「う」脱ヵ)れしくおもひまいらせ候、昨日も状をもて申入ことく、
    こヽもとふしん(普請)申つけ候に仍、存なから不申候、
    やかてさいまつ(歳末)に参候て可申候、其ときくちをすい申候へく候、
    たれ/\にもすこしも御すわせ候ましく候、そなたの事、
    こなたへ一たんよくみへ申候、かしく。
       十二月二日          秀吉(花押)
         (切封)
           秀よりさま       とヽ
  • 安田文書(『豊太閤真蹟集』五五)
    八日(晴:義演) 秀吉、伏見木幡山城より茶々姫(「御ふくろさま」)宛てに書状を送る。
  • 慶長元年十二月 豊臣秀吉音信
  • 原文書(『豊太閤真蹟集』五六)
    十五日(晴) 秀吉・秀頼親子の大坂移徙を祝う総礼のため、義演出京し大坂へ下向する。 義演准后日記
    十七日(晴) 秀吉(「太閤」)・秀頼(「若公 四歳」/「若公 秀頼ト号」)親子の大坂移徙を祝う総礼のため、大坂城にて総礼。 秀吉、自らより先に秀頼に礼を取らせる。勅使、親子に剣やそれぞれへ銀子五十枚を送る。 以下、公家門跡・諸家衆数千人が参賀する。 義演准后日記


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