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# 史料

天正十八(1590)年

※ []内は茶々姫の居場所

正月[大坂城]
十四日 秀吉の妹朝日姫(慧日規箴:「太閤秀吉公之女、嫁東照神君」)を東福寺南明院に葬る享年四十八。南明院殿と諡される。徳川家康、南明院殿のために霊殿客殿方丈等を建てる。 慧日規箴、東福寺誌
この月 秀吉、養女小姫(織田信勝女)を秀忠に娶せ、この日聚楽第にて祝言が挙げられる。(実際婚礼があったとも、婚約どまりだったともいわれる。) 『浅井三姉妹の真実』
二月[大坂城→聚楽第]
八日 秀吉(「殿下」)、鶴松(「同若公」)を伴い上洛。 言経卿記
九日(晴) 茶々姫(「殿下若公御母儀」)、前日の秀吉・鶴松に引き続き上洛する。 言経卿記

三月[聚楽第]
一日 秀吉、小田原に出陣する。
福田千鶴『淀殿』
二十九日 羽柴秀次、弟小吉秀勝と共に伊豆山中城を落とす。
『浅井三姉妹の真実』
四月[聚楽第]
十三日 秀吉、小田原での戦に備え、奥向きの仕事を任せるため、聚楽第のお寧に「細かく気が付きよく自分に仕えてくれる者」として茶々姫(「よとの物(淀の者)」)を向かわせるように書状を送る(宛名はお寧の侍女「五さ」)。
 返す/\゛、はや/\てき(敵)をとりかこ(鳥籠)へいれ候ておき候間、あぶなき事はこれなく候まゝ、心やすく候へく候。わかきみ(若公/鶴松)こ(恋)しく候へとも、ゆく/\(行々)のため、又は、てんか(天下)おた(穏)やかにもうし(申)つく可候と存じ候へば、こい(恋)しき事もおも(思)いきり候まゝ、心やすく候へく候。我等もやいとう(灸点)まで致し、み(身)のようしやう(養生)候まゝ、きつか(気遣)い候ましく候。おの/\(各々)へも申ふれ、大めう(名)どもににうほう(女房)をよ(呼)ばせ、小たわら(小田原)にありつき候へと申ふれ、みきとう(右通)/\りのことくになかちん(長陣)を申つけ候まゝ、其ためによとの物(淀の者)をよ(呼)ひ候はん間、そもじよりもいよ/\申つかわせ候て、まへかと(前廉)によをい(用意)させ候へく候。其も(し脱か)につゝき候ては、よとの物(淀の者)我等のきにあい候ように、こまかにつか(使)れ候まゝ、心やすくめしよせ候よしよと(淀)へも其もしより申やり、人をつかわ(遣)わせ候へく候、我等としをとり可申候とも、としの内に一と(度)うは其方へ参候て、大まんところ(政所)又ハわかきみ(若公)をもみ(見)可申候まゝ、御心やすく候へく候、
妙法院文書(『太閤書信』)
五月[聚楽第→石垣山城]
一日 秀吉、大政所(「大まんところ殿さま」)への書状にて、年内に鶴松(「わかきみ(若公)」)と大政所へ参会することを約する。 妙法院文書(『太閤書信』)
七日 秀吉、茶々姫(「淀之女房衆」)の小田原下向について吉川広家(「吉川侍従」)朱印状を発給する。
 追而申候。いなた(稲田)清蔵火急に遣候間、つき(継)馬を以可送之候、不可有油断候。以上。
淀之女房衆召下候付而、為迎稲田清蔵差越候、然者、下向之日限重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守(直頼)、稲田清蔵左右次第、傳馬夫令用意相待、早速可送候。次泊々賄等之儀、清蔵可申渡之間、馳走可悦思食候。猶以、路次無滞様に可入精事肝要候也。
     (天正十八年)五月七日   (秀吉朱印)
       岡崎 吉川侍従(広家)とのへ
猶、ほぼ同文の朱印状が新庄直頼(近江坂本城主)と一柳越後守に対して発給されている。
吉川家文書(『太閤書信』)
この頃 茶々姫(「北の御方」)・京極龍(「佐々木京極さま」)、京都を発し小田原へ向かう。
  • 『太閤さま軍記のうち』の伝える茶々姫らの小田原ゆき
  • 「…さだめて、国々所々にて、御てま入るべきのあひだ、諸卒も、かね/\゛見をよび、たいくつなく、その覚悟ぞんじ候やうにと、おぼしめされ候か、北の御方茶々姫)・佐々木京極さま(龍)御同陣なされ候ける。御輿数三十余丁、馬乗の御女房衆六十余騎なり。
      供奉之衆
     新庄駿河守・草野二郎右衛門・大野木甚之丞・一柳越後守
       御とも申され候なり。
      御物奉行
    稲田清蔵・荒川金右衛門
    かやうに、おほせつけられ、路次すがら御警固にて、関白殿御あとより御参陣候なり。」
    『太閤さま軍記のうち』・福田千鶴『淀殿』
    十四日 秀吉(「てんか」)、寧(「まんところ殿」)からの手紙に返信する。 寧から鶴松(「わかきみ(若公)」)・大政所(「大まんところ殿」)・「五おひめ」(豪姫?小姫?)・きん吾(後の小早川秀秋)・寧(「そもじさま」)が壮健である旨を聞き、秀吉はそれに安堵している。「いよ/\わかきみ(若公)御ひとね候へく候」とあり(「ひとね」=養育するの方言)、茶々姫不在の聚楽第で、鶴松が寧に任せられていることが分かる。 小山文書(『太閤書信』)
    下旬頃 秀吉(「てんか」)、寧(「まんところ殿」)へ戦況などを音信する。 書状で大政所(「大まんところ殿」)・寧(「そもし」)・鶴松(「わかきみ(若公)」)・小姫(「おひめ」)・きん五(後の小早川秀秋)の息災を尋ねている。 末尾にはおそらく茶々姫を指すであろう「大さか殿(大坂殿)も久しく」と続くが、以降欠けているため正確な内容は不明。茶々姫が鶴松と久しく離れていることから、会いたがっている旨を伝えたものか、もしくは茶々姫の壮健を寧へ伝えたものか。 篠崎文書(『太閤書信』)
    七月[石垣山城→聚楽第]
    十日 秀吉、茶々姫(「淀女房衆」)帰洛について小早川隆景(「羽柴筑前侍従」)、吉川広家(「羽柴新庄侍従」)へ朱印状を発給する。
    急度被仰遣候、小田原之儀、北条被為刎首、平均被仰付、此表悉被隙明候条、淀女房衆被差上候、然者来十五日三枚橋迄可相着候、成其心得兼日令用意、小荷駄三十疋、夫丸六百人申付、路次無滞相越候様、馳走肝要候、留々如書付大津迄可為十一留候、猶山中橘内(長俊)可申候也、
       (天正十八年)七月十日   (秀吉朱印)
          清須とまり羽柴筑前侍従(隆景)とのへ
          岡崎とまり羽柴新庄侍従(広家)とのへ
    吉川家文書
    十二日 秀吉、寧(「まんどころ殿」)に茶々姫(「よとの五(淀の御)」)を十五日帰洛させる旨書状を出す。
    また、この日より前、鶴松(「わかきみ(若公)」)が寧の支度で金吾(後の小早川秀秋)・小姫と共に盂蘭盆会の生御霊を秀吉に送ったことが記されている。特に鶴松は、同時に黄金五十枚も送り、これを喜んだ秀吉がその場で金配りを行ったらしい。
     かへす/\、十七日にあいつ(会津)へ参候間、やがて/\、ひま(隙)あけ候て、九月中にはかならす/\上可申候まゝ、御心やすく候へく候。それにつき、はやよとの五(淀の御)お(を)も十五日に上申候。めでたく、かしく。まんどころ(政所)殿。てんか。
    文給候。御うれしく候。わかきみ(若公/鶴松)・きん五(金吾)・おひめ(小姫)、いきひたま(生御魂)給候。いく久しくとゆわ(祝)ひ入候。ことににわかきみ(若公)殿よりきかね(黄金)五十まい給候。ふくろ(袋)のしたて(仕立)み事(見事)にて候。其もしたんこう(談合)候て、あみの事給候やらん存候。はやはや小たわら(小田原)とり、うちまさ(氏政)・同六つのかみ(陸奥守/氏照)両人のくひ(首)さしのほ(差上)せ候。さためて此文よりさきにのほり可申候。わかきみ(若公)殿より給候いきひたま(生御魂)のかね(金)まいり候おりふし(折節)、ほうてうくひ(北条首)も同ひ(日)まいり候間、其さすじゅ(座敷)にい(居)申物(者)ともに一まいつゝと(取)らせ申候。とりはけ(取分)めてたく候。かしく。    (天正十八年)七月十二日
    箱根神社文書(『太閤書信』)
    十四日 長束正家、茶々姫(「御上様」)の帰洛について十五日出発する旨を小早川隆景と吉川広家に書状を送る。
    明日十五日、御上様被成御上洛候、然者、人足添馬之事、最前被仰出候外ニ、重而人足百人、新庄駿河守(直頼)、一柳越後守両人ヘ可有御渡候旨、 御諚候、人足並添馬前後之分、一度ニ入申儀候、無御由断、兼日有御用意、可有御侍候恐惶謹言、
                  長束大蔵大輔
       (天正十八年)七月十四日   正家(花押)
         羽柴筑前侍従殿(小早川隆景)
         羽柴新城侍従殿(吉川広家)
              人々御中
    小早川文書
    十五日 茶々姫(「御上様」)、小田原を発し京都へ向かう。 『吉川家文書』、箱根神社文書(桑田忠親『太閤の手紙』)、『小早川文書』(福田千鶴『淀殿』)
    二十九日 鶴松(「淀ノ若君」)が煩い、南井坊・興福寺(多聞院)・金勝院に祈祷の申し入れがある。
    この記事に「淀ノ若君」とあることから、この時期聚楽第から淀城へ下ったか。
    多聞院日記
    この月 小吉秀勝、小田原での戦功により甲斐府中城を与えられる。 『浅井三姉妹の真実』
    八月[聚楽第→淀城]
    一日 吉田兼見、聚楽第へ赴き、城中の鶴松(「若公」)へ礼参する。 兼見卿記(福田千鶴『淀殿』)
    上旬 秀吉、陣中より茶々姫(「おちゃゝ」、「そもし」)に書状を送る。まずは茶々姫が小田原を離れてから手紙をおくらなかったことを詫び、鶴松(「わかきみ(若公)」)と離れている間にさぞ成長したことだろうと尋ね、改めて鶴松の養育について、鶴松を冷やさないこと、火の用心を徹底すること、侍女の管理について注意をすることを促している。また、帰洛の暁には、鶴松に会い、茶々姫とねんごろに語り合いたいと記している。

    天正十八年八月? 豊臣秀吉音信
    水野文書(『太閤書信』、福田千鶴『淀殿』)
    この頃 秀吉(「てんか」)、鶴松(「御つるまつさま」)へ返信をおくり、鶴松からの音信に喜ぶ。「両人の御かゝさまへ事つて申候へく候(二人のお母様によろしくお伝えください)」との一文から、聚楽第にて寧・茶々姫の支度で秀吉に書状を送ったであろうことが推測される。
     かへす/\、おほしめし候て、文、申はかりなく候。両人の御かゝ(母)さま(お寧・茶々姫)へ事つて(言伝)申候へく候。
    御しょ(書)、かたしけな(忝)く存候。はいせう(梅松)めしよせられ候て、らんふ(乱舞)のよし、めてたく存候。たゝいま参候間、御たしなみ候て、御さ候へく候。かしく。
       御つるまつさま 御返事     てんか
    寺村文書(『太閤書信』)
    十六日(晴のち小雨) 秀吉(「くわんはく殿」)小田原出陣の留守見舞いとして、朝廷より秀吉母大政所(後の天瑞院。「なか」とも)・寧(「北のまん所」)・茶々姫(「御ふくろ」)へ贈物あり。間もなくそれぞれ返礼する。
    なお、茶々姫への贈物は「御ふく一かさね」(呉服一重)・「おもし一すち」(お綟一筋)・「五かう五かのおりかみ」(五肴五荷の折紙)。
    お湯殿の上の日記
    この頃 秀吉(「ひてよし」)、奥州陣中から寧へ書状をおくる。内容は、患っていた小姫(「おひめ」)の病状が快方に向かったことを喜び、また鶴松(「おつるまつ殿」、「わかきみ(若公)殿」)が壮健かどうか様子をたずね、言伝するよう依頼している。さらに鶴松の様子について、詳細に返事がほしいという旨を記している。 里見文書(『太閤書信』)
    九月[淀城]
    この月 伊藤秀盛(「伊藤加賀守秀盛」)、豊臣一家のために白山神社に願文を奉納する。その順序は秀吉(「関白様 酉之御年 御年 五十四歳 」)、大政所(「丑之御年 御年 七十四歳」)、鶴松(「若君様 丑之御年 御年 二歳」)、寧(「北政所様 御としおほへ不申候」)茶々姫(「若君様御袋様 御としおほへ申候」) 櫻井文書(『岐阜県史 史料編』)
    一日 秀吉、小田原より京都に凱旋する。 お湯殿の上の日記、多聞院日記、三藐院記、当代記など
    十一月[淀城]
    七日 秀吉、朝鮮使節との謁見において酒宴ののち、鶴松(「幼児」)を抱いて朝鮮の楽師の演奏を聴く。
    (略)秀吉という男はからだも小さく、容貌は平凡で、顔色はあさぐろく、とくにこれという威厳もない人間だったが、ただ目をひらけば目のたまは爛爛と光をはなち、人を射すくめるようだったという。使節を迎えたとき、かれは三重の席をしつらえ、はだかの床の上に南に面してすわり、紗帽をかぶり、黒の胴着をつけていた。
     席上には宴会用の道具は用意されておらず、卓がひとつまえに置いてあり、そのまんなかに餅が器に盛ってのせてあるだけだった。酒は土器で汲みかわされたが、酒も濁っており、礼式ははなはだ簡単で、二三度さかずきがめぐってきたかとおもうと、はやおしまいになってしまい、これでは敬意を表わすまもなければ、ことばをかわす機会もありはしない。
     しばらくすると秀吉は、つと席を立ってしまい中にはいっていった。けれども家来たちはだれひとり動こうとしなかった。するといつのまにかひとりの男が平服のまま幼児を抱いて中からでてきて、大きな堂の中をぐるぐる廻りはじめた。みるとこれが秀吉だ。なみいるものはすべて平身低頭であった。やがて秀吉は縁側にでてわが国(朝鮮)の楽師たちをよび、さかんに音楽を奏でさせていたが、そのうちに抱いていた幼児がかれ(秀吉)の着物の上に小便をかけてしまった。秀吉は笑いながら側近のものを呼ぶと、中から、
    「かしこまりまして…」
    と長い返事をして、ひとりの日本のおんながとびだしてきた。秀吉はおんなに幼児をわたし、その場で別の着物に着替えたが、まるであたりに人間なんぞいないとでもいうような厚顔不遜の態度であった。…
    懲録
    十八日 秀吉(「関白様」)、鶴松(「若君様」)煩いにつき、寺澤広正(「寺澤越中殿」)を北野社へ遣わし、病気平癒の立願として千石を寄進する。 北野社家日記
    二十五日 秀吉(「関白様」)、鶴松(「関白殿御子 若君さま」)の病気平癒祈願のため、吉祥院巫子湯立七釜を奉納する。 北野社家日記


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