# 書状・書簡

≫ 茶々姫宛て書状

天正十八年八月? 豊臣秀吉音信(水野文書『太閤書信』)

《読み下し》
 かえす/\、わかきみ(若公)ひやし候はんように申つけ候へく候。なにわ(何は)につけ候て、ゆたんあるましく候、
そのいこ(以後)わ文にても申まいらせ候はて、御心もとなくおもひまいらせ候。わかきみいよ/\大きくなり候や、そこほとのひのよしん(火の用心)、又はした/\まてみだ(乱)れなきように、かたく申つけられ候はん事せん(専)にて候。廿日ころにかならす参候て、わかきみた(抱)き可申、そのよさに、そもしをもそは(側)にねさせ申候へく候、せんかく(折角)御まち候へく候。かしく。
   おちゃ/\       てんか
《訳》
 (返し書)くれぐれも鶴松を冷やさぬように、何事につけても油断しないように
小田原で別れて以降、手紙も出せなかったので、不安に思っていることでしょう。鶴松はますます大きくなったことだろう。そちらも火の用心や、下々の風紀にも、固く注意を払うことが肝要ですよ。二十日ごろにはそちらへ帰る予定なので、そちらへ行って鶴松をあやそう。その晩にはあなたとねんごろに語り合おうと思っているので、待っていてください。
  お茶々へ          てんかより

《解説》
天正十八年、茶々姫が小田原から聚楽第に帰還した後、秀吉から送られた手紙です。 この手紙は、秀吉も帰洛した九月一日より後に送られたものであるとされてきました(桑田忠親氏)が、福田千鶴氏が『淀殿』にて、秀吉が帰洛したのち、鶴松と長い間会えなかった期間がないことなどから、これは秀吉が帰洛する前に出したもので、当初は「二十日ごろに帰る」予定だったのだろう、とされています。
この頃、他の大名に発給した朱印状等には茶々姫のことを「淀のもの」、「淀の女房衆」、「淀の御」などと書き記していますが、この手紙には「お茶々」と宛名していることから、このころはまだ「お茶々」と実際に呼んでいたのではないでしょうか。


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