# 百景

大津城跡


△ 大津城跡(大津市)

“秀吉の妻たちの力”を家康に示した決死の交渉の舞台

関ヶ原合戦のころ、京極高次は妻の(茶々姫の次妹)、そして秀吉亡き後京極家に戻っていた姉の松の丸殿(龍)とともに大津城にあった。
高次は当初は西軍に応ずる素振りを見せていたが、実際は徳川家康の要請を受け入れ東軍に翻る。 結果、西軍が大挙して大津城を取り囲み、決死の籠城戦となった。

籠城戦は、松の丸殿の侍女が砲弾によって即死し、松の丸殿自身も気絶するという阿鼻叫喚の様相を呈していた。京都新城の屋敷にいたお寧は松の丸殿を助けるために腹心の孝蔵主を使者として大津へ赴かせる。西軍へ降伏するように促す使者だった。しかし高次の意志は堅く、交渉は不首尾に終わる。

そこでお寧は高次の義姉であり、高次自身の従妹でもある茶々姫の“血縁の力”を借りるために孝蔵主を大坂へ赴かせる。それまで茶々姫は秀頼を守るためどちらの軍に肩入れすることもなく大坂城でじっと秀頼を守っていたが、お寧の要請を受け、松の丸殿、そして妹の初を救うために使者を出すことを決意する。使者には同じ浅井一族の海津殿鶴千代・饗庭局母子を赴かせ、お寧の使者孝蔵主、高野山の使者木食応其と共に再度高次らとの交渉を続け、慶長五(1600)年九月十四日、高次に西軍への降伏を承諾させる結果を得る。

高次はその後頭を丸め高野山に入るが、西軍を大津城にで引き留め、関ヶ原に間に合わせなかったことが大いに家康に評価され、大名に復帰することを許されるだけでなく、加増され若狭一国を与えられることになる。

交渉を成功させたお寧の使者孝蔵主と茶々姫の使者海津殿・饗庭局はその帰り道、松の丸殿を連れ出し、京都西洞院邸へ無事送り届けた。


前画面に戻る