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# 近江浅井氏

小野殿

▽ 井口弾正邸跡(滋賀県伊香郡高月町井口)

生年: 大永7(1527)年?
没年: 天正元(1573)年9月19日

名: あこ(阿古、阿子、阿古女)
称: 小野殿(江州浅井家霊簿)、阿子御料(徳昌寺受戒帳)、井口殿(浅井三代記)
戒名・院号: 妙佛惠芳

  • 妙佛禅定尼
      …高野山過去帳、江州浅井家之霊簿
  • 惠芳 …徳昌寺受戒帳
  • 乳母: 民部卿局 …菅浦文書
    女佐の臣: 寺田半之介 …浅井三代記



    父: 井口経元(井口弾正、越前守)…中原系図

    井口氏

    ▽ 経元の菩提寺理覚院(滋賀県伊香郡高月町井口)
    井口(いのくち)氏は崇峻天皇の末裔である近江中原氏の一族とされます(もしくは近江佐々木源氏の一族とも)。
    井口氏はもともと三条家の荘園(富永庄総政所)を主宰する荘官で(『江北記』)、 中世期には佐々木六角氏に仕え「井頼り」として高時川右岸を灌漑する近江伊香郡の用水管理を司っていました。 当時琵琶湖を擁しながらも用水は重要な課題であり、井口氏は次第により大きな影響力を持つようになります。 この頃から井口氏は代々「弾正」、「越前守」を名乗り、「井口弾正家」として名を馳せていきました。

    「井口弾正」経元と阿古

    ▽ 理覚院に伝わる井口経元肖像
    後に井口氏は京極氏に仕えましたが、京極家の内紛に乗じて浅井氏と共に湖北で力を得、浅井氏の重臣となり、「湖北四家」と讃えられました。
    亮政の時代、亮政の右腕となって小谷の喉元成道寺城(後の虎姫城)を任されていたのが阿古の父である経元です。 (なお、亮政は娘を一族の井口経慶に嫁がせています。)
    しかし享禄4(1531)年、六角氏との「箕浦の合戦」において経元は亮政の身代わりとなって討ち死にしてしまいます。 亮政は経元の働きに感激し、嫡男である経親を可愛がり重用しました。 そしてまだ頑是無い(数えで5歳か)その妹阿古を引き取り養育を引き受けます。亮政の庇護のもとに成長した阿古を、亮政は後に久政の妻としました。 一方でこの婚姻が高時川右岸用水を担う井口氏と親戚となることで 高時川左岸の代表者であった浅井氏の内政に大きな効果(城下の生産を安定させる、領国内の不和を取り除くなど)を得るという側面もあったことは無視できません。

    兄・井口経親

    享禄4年に父経元が亡くなると、まだ若かったもしくは幼かったであろう兄経親が跡を継ぎました。
    そこに天文年間(1532〜1553)、井口氏と三田村氏の間で用水論争が起こります。
    同じく浅井氏の重臣であった二者ですが、井口氏が頼みとしたのがやはり浅井家家老である赤尾氏の赤尾清世だったといいます。
    経元の没年を考えると、この事件はおそらく天文の始めの頃であったのではないかと推測します。 代替わりで若い当主に付けこまれたか、詰めが甘かったのか……井口家に起きた試練でした。

    付録:井口経元について

    井口経元
     … 井口城・成道寺城(後の虎姫城)城主。
    ▽ 成道寺城跡(現・矢来神社)

    官職:弾正少弼(弾正忠)、越前守
    法名:寛誾

    父:井口直経(又八郎)
    兄弟:井口経尚(弾正忠)、信経(又四郎)、政義(越前守、「弟」とあり〔浅井三代記〕)
    ※ 井口家の通字は諱では「経」、
      字では「又○郎」であったようです

    子女:

  • 井口経親(越前守)
  • 阿古
  • 月瀬播磨守妻
  • 阿閇淡路守貞征室
  • 井口経貞(新左近)

  • 浅井一族の女として

    阿古が一つ年長である若き久政の元に嫁いだ時期は、天文10年前後、14〜5歳の頃と思われます。
    天文12年には阿古にとって第一子となる娘を儲け、翌年には再び子どもを身ごもりました。
    しかし天文13年頃、先代から敵対していた六角氏と争わない姿勢をとっていた浅井氏は六角氏に人質を出さなければいけなくなります。
    その人質として立ったのが身重の阿古だったのではないかといわれています。
    観音寺城の近くに小野という地名がありますが、阿古が「小野殿」と呼ばれたのはここが由来でしょうか。
    そして六角氏の居城、観音寺城下で阿古は天文14年に男児を安産しました。 この男児は、父久政も名乗った浅井家代々の幼名を受け継ぎ、「猿夜叉丸」と名づけられます。 敵地で生まれた若君猿夜叉丸は厳しい環境で母と共に天文22(1553)年までの8年を過ごし、後に「長政」と名乗ることになります。

    子女:

  • 1543(天文12) 泉源寺殿(京極長門守高吉室、「京極マリア」)?
  • 1545(天文13) 長政
  • 政之?
  • 松林院殿?
  • 当主夫人への道 〜久政と明政

    久政は、亮政から「当然のごとく」家督を相続したとはいえません。 なぜなら久政は初代亮政の嫡男(正室の子)ではなかったからです。
    実は亮政自身、先代直政の嫡子ではなく、妻の蔵屋が嫡女であり、当主として婿に迎えられた存在でした。 すなわち、浅井代々の当主の血を引くのは蔵屋のほうでした。
    亮政と蔵屋の間には政弘(新四郎)という嫡男がいましたが、早世してしまい、後は鶴千代(後の海津殿)という女児がいました。 当初は年長であった尼子馨庵腹の高政がその利発さを買われ、嫡子とされたもののやはり二十歳を前にして夭折しました。 そこで鶴千代が田屋氏から迎えた婿・明政が嗣子に指名されていましたが、家督を実際に継いだのは久政でした。 その後、明政は一時的に田屋氏に戻っています。

    高橋昌明氏「江北の戦国政治史―浅井と京極―」(滋賀県教育委員会『滋賀県中世城郭分布調査』)で、 この家督相続に明政派と久政派の対立があったことを推測されています。 太田浩司氏は、この推測に『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社・二巻)でさらに江南六角氏との関係問題で、 明政派は「交戦派」、久政派は「協調派」と推測されています。 この家督争いは六角家にどう対するかの「交戦派」と「強調派」の争いであったという論です。
    しかし実際は久政が家督相続した後、久政は六角氏との協調路線に反発した重臣たちに半ば無理矢理隠居させられます。 もしこの家督争いが明政派と久政派対立が六角氏に対する政策の派閥争いだったとしたら、 この短期間によっぽどのことが六角氏側か浅井氏側に起こらない限り、かなり不自然な方向転換といわざるを得ません。

    小和田哲男氏は『近江浅井氏の研究』(清文堂出版)で亮政から久政へ家督相続がなされる際、 この時点で周囲は明政を家督としてみなしていながら(実際亮政の死後本願寺からの香典は明政宛て) 何の争いも起こっていないことに着目しています。
    高橋氏が注目されるのは、天文15(1564)年7月3日に久政が海津(高島郡、明政の本拠)に進攻し360人あまりの死者を出した事件です。 しかしながら、この前後には京極高広が復権を狙い、浅井側に攻勢を取っていたことを小和田氏は指摘されています。 この事件は久政対明政の戦いではなく、むしろ先代の死によって京極に狙われた明政を救援する久政の出兵であったと考えられるのです。

    篤い信仰

    浅井家一族は篤く仏教を信仰していました。 後に永禄3年に徳昌寺となる医王寺(現在の徳勝寺)を代々の菩提寺とし、その受戒を始めとする記録は今に伝えられています。 阿古もまた医王寺に深く帰依し、戒を受けた記録が残っています。

    残った記録の始めに出てくるのが、天文15(1547)年2月24日。 長政を産んだ翌年、観音寺城下に居た頃の受戒記録です。この時期がまた意味深で気になるところです。 人質=阿古の説をとると、時の医王寺の僧に城下に来てもらったのでしょうか。

    続いて小谷に帰った翌年の天文23(1555)年11月1日にまた受戒の記録が出てきます。 このとき阿古は「恵芳」というステキな法名を頂いています。
    こうしてみると、節目節目に戒を受ける様子が見えるようです。

    母の暮らし

    阿古が人質から解放された以降、受戒の記事以外阿古の動きはあまり見えなくなります。 久政の長女である昌安と暖かい親交を持っていたと伝えられていますが、 詳細な動きは記録に見えません。
    久政は若くしてクーデター的に長政に家督を渡したとされています。 その後久政は小丸に隠居したと伝えられていますが、しかし当時の山城は普段住居するところではなく、 普段城主一族は清水谷にある「御屋敷」に住んでいたと考えられています。
    しかし阿古は常に久政と住居を共にしていていたというわけではなかったようです。 特に永禄8(1565)年、長政によって「阿古の邸」が建て替えられています。 長政が家督相続後も母に孝養を尽くしていたという点にも注目されますが、それより阿古の当時の生活が垣間見える記録です。

    凶行の理由は

    次に阿古の動向が見えるのは、その最期の記録になります。 これが歴史に残っている阿古の動きの中で一番有名なものです。
    市を小谷の方として長政の妻として迎えながら、織田家と手切れとなった浅井家は信長らによって攻め落とされました。 当時、女子どもは戦で殺されないという不文律があったために小谷の方は無事織田家に返され、また娘たちも命を救われました。 しかし不可解なことに、阿古は命を絶たれます。しかも、恐ろしいほどに残酷な方法で。
    天正元(1573)年9月1日以降、阿古は織田方に捕らえられました。 そして、それから関ヶ原で両手の指を一本ずつ切り落とされ、数日経った19日に命を落としたといいます。 この後小谷の方も北庄城の落城で命を落とすなど、女性もまた戦で命を落とすことが一般的になってゆき、 それは阿古の孫である茶々姫の落命につながって行くのです。
    しかし少なくともこのときに女である阿古が命を落とすことは例外であり、 またこのような残虐な殺され方をするのにはなにか信長の癪に障る特別な理由があったのではないかと伺われるのです。


    略年表

  • 大永7(1527)年

  • 井口経元の女として誕生。
  • 享禄4(1531)年

  • 4月6日、経元が箕浦の合戦で戦死。浅井亮政に引き取られる。
  • 天文10(1541)年ごろ

  • 久政の妻となる。
  • 天文12(1543)年

  • 娘(後の泉源寺殿)を産む。
  • 天文13(1544)年

  • 観音寺城に人質として赴く。
  • 天文十四(1545)年

  • 二月二十四日、猿夜叉丸(後の長政)を産む。
  • 天文十五(1546)年

  • 二月二十四日、医王寺の僧によって戒を授けられる。「阿子御料 浅井新九郎殿之御内」と記載あり(徳勝寺授戒帳)。
  • 天文二十二(1553)年

  • 小谷へ帰還か。
  • 天文二十三(1555)年

  • 十一月一日、徳勝寺において戒を受ける。「恵芳 兵衛尉殿御内」とあり(徳勝寺授戒帳)。
  • 永禄三(1560)年

  • 六月二日〜八月、長政が家督を相続、久政が隠居する。
  • 永禄八(1565)年

  • 長政によって阿古の邸が建て替えられる。
  • 天正元(1573)年

  • 八月二十七日、織田家によって久政が京極丸で自刃。
    九月一日、長政が赤尾邸にて自刃。
    九月十九日、織田家に捕らえられていた阿古が関ヶ原にて刑死。(『嶋記録』)
  • 文禄三(1594)年

  • 茶々姫(「大坂二丸様」)によって長政・小谷の方・久政と共に阿古の追善供養が営まれる(江州浅井家之霊簿)。


    〔ひとりごと〕
    もういうまでもなく分かると思うのですが、阿古さんは私が茶々姫に次に大好きな方です。
    その最期を知ったとき、この方は織田信長を動揺させるものを持っていたのだ!と衝撃を受けました。
    文治派な久政公と長政公のギャップ、そして信仰活動などにものすごく精力的な泉源寺殿……パワフルなこの姉弟を見ていると、 阿古さんの気質がうかがわれるようです。
    泰然として、信長の非を攻めながら激しく刑場に散ってゆく阿古さんのイメージが私にはすっかり染み付いています。


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