一日 | 秀頼(「秀頼卿」)、大坂城にて諸大名に新年の礼を受ける(時慶)。同日、諸大名、西の丸にて家康にも歳首を賀す。秀頼の近習馬廻の諸士もこれに参じるという(実紀)。 | 時慶記・徳川実紀 |
この日の早朝、寧(「政所」)が豊国社へ参詣し、千疋を奉納する。梵舜ら神人たちに進物有。 | 舜旧記 | |
二日(天晴、丑刻雨降) | 孝蔵主、大阪城に来る。 | 時慶記 |
三日(雪降) | 秀頼(「秀頼」)、豊国社へ名代として木下勝俊(「若狭少将」)を遣わし、太刀一腰・青銅百疋を奉納する。 | 舜旧記 |
五日(天晴、風雨降) | 梵舜、寧(「政所様」)らへ進物。寧へ杉原十帖・小扇二本・金、東殿(大谷吉継母?)へ五十疋、梅久局(「梅丸」)へ韈一束を贈る。 | 舜旧記 |
八日(晴) | 宝寿院、秀頼(「大坂秀頼卿」)への年始の礼のため大坂へ下向中との記事。 | 慶長日件録 |
九日(天晴) | 徳川家康(「内府家康」)、鷹狩のため茨木へ赴く。 | 舜旧記 |
十日(天晴) | 梵舜、九日に大坂へ下向し、この日家康(「内府」)に礼参する。百疋進上。 | 舜旧記 |
十一日(雪) | この日秀頼(義演「秀頼様」、時慶「秀頼卿」、孝亮「太閤若公秀頼卿」、慶長「秀頼卿」)の名代として京極高次(義演・慶長「京極宰相」、時慶「京極ノ宰相」、孝亮「大津宰相」)が参内。高次は前日に清涼殿(儀定所)にて後陽成天皇に対面、前田玄以とともに盃を頂く。秀頼より新年の進物として禁裏へ御太刀・馬代として銀子五十枚進上(時慶/孝亮)、「親王御方」(良仁親王)へ御太刀・銀子二十枚進上。 | 義演准后日記・時慶記・言経卿記・孝亮宿禰記・慶長日件録 |
十三日(晴) | 義演、大蔵卿局 (「大蔵卿局 秀頼御袋御乳也」)・伊茶局(「いちや」)・茶阿局(「ちゃ阿局」/豊臣家老女)に巻数・紅帯を進上。 | 義演准后日記 |
十八日(天曇) | 早朝、寧(「政所」)が秀吉月忌のため豊国社へ社参する。 | 舜旧記 |
二十一日(天晴) | 寧(「政所」)、お忍びで豊国社へ社参する。 | 舜旧記 |
七日(晴) | 義演、秀頼(「秀頼卿」)へ新年の総礼が今月十五日に行われる旨の知らせを二条殿(昭実)より受ける。 | 義演准后日記 |
九日(晴) | 義演、十五日の秀頼(「秀頼卿」)への新年総礼について、前田玄以(「徳善院」)より聞く。 | 義演准后日記 |
十日(午後晴) | 義演、茶阿局(「ちゃ阿局」/豊臣家老女)より、秀頼(「秀頼卿」)の月祈祷(大般若経伝読)を十六日に行う旨を伝え聞く。 | 義演准后日記 |
十六日(霽) | 秀頼の月祈祷(大般若経転読)が行われる。祈祷の後、義演、秀頼に対面し盃を受ける。また、秀頼へ杉原三十帖・段子一巻・馬・太刀を進上。義演、秀頼の成長を喜ぶ。
「其後良久有テ秀頼様御対面、御盃拝受之、御成人也、尤珍重/\、諸人安堵只此事也、当年御八歳也、」 |
義演准后日記 |
十八日(天晴、晩雨降) | 寧(「政所」)、秀吉月忌のため豊国社へ社参し湯立を奉納する。 | 舜旧記 |
二十八日 | 孝蔵主、大坂より京都へ帰洛。 | 時慶記 |
二日 | 寧(「政所」)、この日の夜、豊国社へ社参する。 | 舜旧記 |
四日(晴) | 茶々姫(「秀頼御袋」)が病につき、祈祷の為の巻数と桜枝を進上する。また申次の二位局に紅帯を遣わし、前田玄以(「徳善院」)にも折ならびに桜枝を遣わす。 なおこの日、二月十六日に行われた秀頼月祈祷の下賜金三千三百疋が供奉衆へ分配される。 |
義演准后日記 |
六日(大雨) | 茶々姫(「御袋」)、義演に花を贈り見舞い及び祈祷を謝す。 また義演は寧(「北政所」)へ庭先の桜を一枝と初蕨を贈る(なお義演は豪へ九日、家康へは九日と十一日に桜蕨を送っている)。 |
義演准后日記 |
十四日(晴) | 義演、大蔵卿局へ花を一枝と蕨を遣わす。 | 義演准后日記 |
二十日(晴) | 東寺講堂に続き、中断されていた同寺金堂の再興が再開される。なお、これらは寧(「北政所」)の発願による。 | 義演准后日記 |
二十七日(晴) | 秀吉、秀頼(「秀頼卿」)と二代にわたり再建されていた四天王寺でこの日落慶供養が行われる。奉行は片桐貞隆(「片主」)。 | 義演准后日記、鹿苑日録 |
烏丸光宣(「烏丸」)、昨日秀頼の上臈より贈られた樽・肴をこの夜に披露し、関係者へ分配する。 | 時慶記 | |
二十八日(晴) | 孝蔵主、大坂より京都へ帰洛(時慶)。 | 時慶記 |
四月一日に行われる秀頼(「大坂中納言」)へ参賀のため、公家衆や門跡衆が大坂に下る(言経)。 | 言経卿記 | |
義演、(二月より延引されていた)秀頼(「秀頼卿」)への年始参賀について、 前田玄以(「徳善院」)より二月の祈祷の際既に礼参しているためこの度の礼参を免ぜらる旨を聞く(義演)。 | 義演准后日記 |
一日(陰) | 諸家諸門跡、大坂城にて行われる秀頼(「秀頼卿」)へ年頭参賀のため大坂へ下向するが、またも延引される。 | 義演准后日記 |
九日 |
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孝亮宿禰記 |
時慶記 | ||
十日(未刻雨降) | 義演、寧(「北政所」)・大蔵卿局へ泉水の杜若ならびに竹の子を贈る。 | 義演准后日記 |
十六日(大雨) | 義演、この日の日記に秀頼(「秀頼卿」)について記し、その位署書を記す。
権大納言正三位兼左近衛中将豊臣朝臣秀頼」 |
義演准后日記 |
十七日(晴) | 家康(「内府家康」)、この日大坂城より伏見城へ移る。 | 義演准后日記 |
十八日(陰) | 「 (上段)大旦那大納言正三位(従二位行中納言に訂正)豊臣朝臣秀頼御建立 (下段)当堂者去慶長五(「三」と訂正)年 大相(「国」を補記)殿下(秀吉)厳命頻降、雖有御再興、忽両年沈滞訖、爰今年重 亜相(「黄門」と訂正)殿下(秀頼)仰徳善院権僧正玄以、被寄る其足了、依之為興山上人応其奉行、三月六(「日」を補記) 柱立、同二十七日棟上、四月六日瓦葺、速造功終尓、則武門長久而、伴日月常懸伽藍、基堅共乾坤無傾矣于時慶長五年 歳次庚子 四月十八日、座主准三宮法務前大僧正法印大和尚位義演誌之、 以上四行ニ書之、 (裏書:醍醐寺文書より)醍醐寺金堂棟札跡書 慶長五庚子四十八 義演」 |
義演准后日記・醍醐寺文書 |
十九日(晴) | 義演准后日記 | |
二十二日(晴) | 家康(「内府 家康」)、大坂へ下向する。 | 義演准后日記 |
二十七日(雨) | 大和国内山永久寺寺主上乗院(「内山永久寺」/のちの阿野実怡)、秀頼(「秀頼御所」)の祈祷のために入峰する。 | 義演准后日記 |
二十八日(大雨) | 来月の祈祷のため、大坂へ秀頼(「秀頼卿」)の撫物を取りに遣わす。 | 義演准后日記 |
二十九日(雨) | 大坂より撫物として秀頼の服と帯がが到着。「御誕生八月三日、御歳八才也、」と記載あり。 | 義演准后日記 |
一日(天霽) | 義演、前日に届いた秀頼の撫物を使い秀頼の武運長久を祈祷する。 | 義演准后日記 |
四日 | 義演、寧(「北政所」)へ覆盆を遣わす。 | 義演准后日記 |
七日(雨) | 義演、秀頼に団一折・祈祷巻数一合を進上し撫物を返送する。使い秀頼の武運長久を祈祷する。豪(「備前宰相〔宇喜多秀家〕女中」)へも巻数を進上。 | 義演准后日記 |
八日(陰) | 義演、大蔵卿局(「大蔵局」)へ団を遣わす。 | 義演准后日記 |
九日(霽) | 秀頼(「秀頼様」)、義演に返礼として生帷一重・袷を贈る。豪(「備前女中」)もまた返礼として銀子を十両進上する。 また義演、この日寧(「北政所」)へ蒸竹子を贈る。 |
義演准后日記 |
十二日(晴) | 方広寺大仏ならびに三十三間堂千手仏について、その修復は秀頼(「秀頼様」)の名で行われ、その奉行は木食応其(「上人」)が務めたことを義演がこの日記録する。 | 義演准后日記 |
十八日(天晴) | 寧(「政所」)、秀吉月忌のため豊国社へ社参する。 | 舜旧記 |
二十日(陰、時々雨) | 義演准后日記 | |
二十三日(時々少雨灑) | 来る二十八日、大坂城で秀頼(「秀頼卿」)祈祷のための大般若経伝読が行われる知らせが届けられる。 | 義演准后日記 |
二十四日(雨降) | 寧(「政所」)、吉田兼見(「二位」)を通じて梵舜に最要中臣祓事を依頼する。 | 舜旧記 |
二十八日(晴) | 義演准后日記 | |
三十日(陰) | 義演、大蔵卿局・「ちゃ阿ノ方」(朝覚院?豊臣家老女?)へ礼のため生帷を遣わす。 …大蔵卿局、既に徳川方に拘束か? |
義演准后日記 |
二日(晴、大夕立) | 西洞院時慶、孝蔵主に平野社材木役免除の件について書状を送る。 | 時慶記 |
義演、身柄を拘束されている(「被召置云々」)大蔵卿局へ樽を遣わす。 | 義演准后日記 | |
六日 | 寧(「北政所」)、息子大野治長に連座した大蔵卿局を救免するために大坂へ赴く。 | 時慶記(同月五日条) |
八日 | 寧(「北政所殿」)、大坂より帰洛する。 | 時慶記 |
寺領安堵の礼として秀頼(「秀頼卿」/曝布五十端)・茶々姫(「御袋」/曝布二十端)・家康(「家康」/五十端)・毛利輝元(「輝元」/三十端/但し帰国したため届かず)・宇喜多秀家(「秀家」/三十端/但し帰国のため届かず)・前田玄以(「徳善院」/曝布三十端)・増田長盛(「増田右衛門尉」)・長束正家(「長束大蔵大輔」)へ進物。 | 義演准后日記 | |
十二日(夕立) | 家康(「内府 家康」)、奥州会津の上杉氏征伐のため道普請を命じる。 | 義演准后日記 |
十八日(天晴) | 寧(「政所」)、秀吉月忌のため豊国社へ社参し、夏神服二重を奉納する。また、増田長盛(「増田右衛門」)・前田玄以(「徳善院」)も社参する。秀頼方の意向か? | 舜旧記 |
十二日 | 孝蔵主、この日伏見へ赴く。その後大坂へ。 | 時慶記(同月十三日条) |
十三日 | 家康(「内府」)が会津征伐のため留守につき、大坂の情勢不穏という。義演は荷物を伏見から京へ避難する。 | 義演准后日記 |
十七日 | 夕刻、毛利輝元(「毛利宰相」)が「守護」のため大坂城西の丸(「此中家康住宅ノ丸ナリ、」)へ入る。 | 義演准后日記 |
細川忠興の妻、玉(明智光秀女)が西軍が人質に取ろうと大坂玉造の屋敷を取り囲む中、それを拒否して命を落とす。『清正行状記』では、長束正家(「長束大蔵」)・増田長盛(「増田右衛門」)らは秀頼(「秀頼様」)の名でこれらを行ったという。 なお、『徳川実紀』によると、徳川秀忠の妻であった督(「御台所」)は、鍋島直茂の屋敷に移し守るよう命じられていたという。 |
徳川実紀・清正行状記 | |
十八日(晴) | 義演准后日記 | |
時慶記 | ||
十九日 | 義演准后日記 | |
徳川家康(「内府」)家臣が伏見城にて籠城を始める。伏見の前田玄以(「徳善院」)らの家が辰刻(午前八時ごろ)から申刻(午後四時ごろ)まで続いた火災によって焼失。また、この日の晩にも火災あり。 | 孝亮宿禰記 | |
二十日(夕立) | 「秀頼様衆」が伏見城(「内府衆留守居□也」)を攻撃する。 | 義演准后日記 |
伏見城松の丸辺りにて火災あり。 | 孝亮宿禰記 | |
二十二日 | 伏見城合戦での鉄砲の音が、三里離れた洛中に届く。 | 孝亮宿禰記 |
二十三日 | 小早川秀秋(「筑前中納言」)、伏見城攻撃に加わる。 | 義演准后日記 |
二十四日(大夕立) | 大津城が落城し、宇喜多秀家(「浮田中納言」)へ引き渡されるという噂が流れる。 | 義演准后日記 |
伏見城合戦での鉄砲の音が、三里離れた洛中に届く。 | 孝亮宿禰記 | |
二十五日(終夜大雨) | 義演准后日記 | |
二十七日(終夜大雨) | 細川忠興(「丹後長岡越中」)、家康に供奉するため関東へ下り、田辺城が孤立する。 | 義演准后日記 |
二十八日(雨) | 伏見城攻衆、城攻めの用と称して醍醐寺内に侵入し、竹を伐採するなど狼藉を働く。 | 義演准后日記 |
二十九日(雨) | 義演、前日の件を受けて大坂へ改めて制札を求める。狼藉続く。 | 義演准后日記 |
三十日 | 大坂より三奉行(「三奉行衆」)の制札が届く。狼藉続く。 | 義演准后日記 |
この日もまた鉄砲の音が京に響く。寅刻(午前四時ごろ/孝亮)または子刻(午前0時ごろ/義演)に松の丸が陥落し、伏見城が落城する。 | 孝亮宿禰記・義演准后日記 |
一日(霽) | 辰刻(午前八時ごろ)から午刻(正午ごろ)まで伏見城が炎上する。 | 義演准后日記 |
西洞院時慶、伏見城落城の噂を聞く。 | 時慶記 | |
二日(晴) | 翌日の秀頼誕生日のため祈祷を行う旨を触れる。 | 義演准后日記 |
伏見城本丸が陥落し、徳川家康(「内府」)の家臣である大将の鳥井元忠(「鳥居彦右衛門」/「鳥居」とも)が切腹する。伏見の町は焼失し、死人は数知れないとの記録。また洛中から見物人が伏見に押し寄せ、盗賊が横行したとの記事も。 | 孝亮宿禰記 | |
三日(夕立) | 義演准后日記 | |
秀頼(「秀頼」)、祈祷のために梵舜へ湯立五釜を依頼する。「奇特なり」という。 | 舜旧記 | |
四日(晴) | 義演准后日記 | |
五日(晴) | 毛利家家臣安国寺恵瓊(「安國寺」)が千人を引き連れ尾張に出陣、長束正家(「長束大蔵大輔」)は伊勢に出陣し、石田三成(「石田治部少輔」)もまた佐和山(「サヲ山」)を出陣するという噂が義演に届く。 | 義演准后日記 |
六日(天晴) | 秀頼(「秀頼」)、祈祷のために梵舜へ湯立三釜を重ねて依頼する。「奇特なり」という。 | 舜旧記 |
七日(晴) | 義演准后日記 | |
九日(晴) | 家康(「内府」)、京方面へ出馬するという。 | 義演准后日記 |
十一日 | 西洞院時慶、秀頼(「秀頼卿」)・毛利輝元(「輝元卿」)・前田玄以(「徳善院」)増田長盛(「増田右衛門尉」)へ祓札を贈る。 時慶、孝蔵主が大坂に滞在していることを聞く。 |
時慶記 |
十二日 | 西洞院時慶、再び秀頼(「秀頼公」)らに祓札を進上する。 | 時慶記 |
十四日 | 秀頼、西洞院時慶へ礼として御初尾を百疋送る。 | 時慶記 |
十六日(天晴) | 八条宮智仁親王(「八条殿」)、豊国社へ社参し奉納・神供する。また、京極高次(「京極殿」)も社参する。 | 舜旧記 |
十八日(天晴) | 寧(「政所」)、秀吉月忌につき社参・奉納・進物有。その後神事を見物する。また、勅使烏丸光宣(「烏丸大納言宣光」)、社参し奉納・奉幣あり。 | 舜旧記 |
十九日 | 豊国社にて、神事が執り行われる。「二条殿」(昭実ヵ)、見物する。 | 孝亮宿禰記 |
豪(「備前中納言〔宇喜多秀家〕内儀」)、宇喜多秀家(「浮田宰相」)祈祷のため豊国社にて湯立二釜・男巫を執行する。 | 舜旧記(当日条・翌二十六日条) | |
二十六日 | 義演准后日記 | |
二十八日(雨) | 孝蔵主、西洞院時慶に寧が自らの居城である京都新城の矢倉を壊させた旨を書状で伝える。 | 時慶記 |
二十九日(晴) | 寧、京都新城(義演「京都城」)の一部を破却し、石垣や櫓を公家に下げ渡し始める。 この理由は表向きに、京都新城が禁裏の側であるため、禁裏を戦火から守るための破却である(「禁裏御近所故也」)とされた(義演)。 | 時慶記(跡部2006)・義演准后日記 |
三日(晴、夕立) | 京極高次(「城主」)、脇坂安治(「脇坂」)らと同心し大津城へ引き返し篭城戦を開始する。 | 言経卿記・時慶記(同月四日条) |
八条宮智仁親王(「八條宮」)の斡旋により細川藤孝(「丹後長岡玄旨」)西軍に降る。 | 義演准后日記 | |
四日(晴時々雨) | 大津城が騒然とし始める。 | 義演准后日記 |
六日(晴) | 大坂勢(「大坂ヨリ軍兵」)醍醐に駐屯する。 | 義演准后日記 |
七日(晴) | 孝蔵主、高野山の木食応其(「木食」)と共に大津城合戦の講和を斡旋するが成らず。 | 時慶記 |
午後、大津城下の町が放火される。 | 言経卿記・義演准后日記 | |
義演、井内経紹(「大蔵卿」)を使者として秀頼(「秀頼御所」)へ巻数を進上する。 | 義演准后日記 | |
八日(晴) | 孝蔵主、講和をなせず大津より一時帰京。大津城攻め続く。 | 時慶記・義演准后日記 |
九日(晩陰/重陽節) | 大坂より秀頼(「秀頼様」)祈祷代として金二十両・銀三枚が来る(使者は井口経紹〔「大蔵卿」〕)。前田玄以(「徳善院」)より義演へ十六日に大般若経伝読の依頼が来る。 | 義演准后日記 |
寧(「政所」)、豊国社へ社参する。 | 舜旧記 | |
十二日(晴) | 京極高次(「宰相」)、合戦に敗北し講和に応ずるとの知らせが言経に届く。 | 言経卿記 |
十三日(晴) | 禁裏の「巽」(東南)にある京都新城(寧の居所、「秀頼卿御城」)において、先日の内塀に続き(八月二十九日参照)、南面の門が壊される。 | 言経卿記 |
大津城三の丸が陥落する。 | 義演准后日記 | |
十四日(晴、夜雨) | 大津城(「大津佐々木京極」)、二の丸まで討ち入られる。「太閤政所殿」(寧?茶々姫?)より「眞常」(織田常眞信雄ヵ)・東玉が講和の使者として大津城へ派遣される。講和の間は鉄砲が止み、孝亮はこれを見物する。 | 孝亮宿禰記 |
大津城講和の使者は、寧(「政所様」)方より孝蔵主(「高蔵主」)、茶々姫(「秀頼御袋様」)方より饗庭局(「あいば殿」)、高野山より木食応其(「木食上人」)との記録。
両者の使者が合力し、戦火の大津城より龍(「松丸殿」)を救い出し京へ送る。 なお、落城後城代として石川掃門助頼明(「石河掃門」)が着任し、京極高次(「宰相殿」)は高野山へ逃れる。 |
筑紫古文書 | |
大津城講和の使者は、寧方より(但しこの記録では茶々姫の使者と記載あり)孝蔵主(「高蔵主」)、茶々姫(「豊臣秀頼母儀」)方より木下重堅(「木下備中守某」)・海津尼(海津殿浅井鶴千代)、高野山より木食応其との記録。 なお、京極家は大坂への人質として熊麿(後の京極忠高)を朽木元綱を介して送るとの記述あり。 |
寛政重修諸家譜 | |
大津城落城し、京極高次(「京極宰相」)、高野山に赴く。 | 舜旧記 | |
十五日(小雨時々灑) | 孝蔵主、十二日からこの日までに再び大津へ講和を斡旋しに赴く。 | 時慶記 |
美濃の国境柏原にて合戦有。徳川家康(「内府」)・福島正則(「福田」)・細川忠興(「長岡越中」)・加藤嘉明(「加藤左馬助」)勢勝利する。この合戦において大谷吉継(「大谷刑部少輔」)、討死にする。 小早川秀秋(「余吾殿」)、この合戦で叛逆あり。巳刻、佐和山城(「掉山」)落城する。 | 舜旧記 | |
十六日(晴) | 義演、大坂城にて大般若経を転読する。 | 義演准后日記 |
西軍、東福寺へ甲乙軍勢の乱入を禁じる。 | 東福寺誌(東福寺文書) | |
十七日(晴) | 関ヶ原の合戦にて、小早川秀秋(「金吾」)・小西行長(「小西摂津守」)・脇坂安治(「脇坂中務」)・長束正家(「長束大蔵」)らがいわゆる西軍に離反し、大谷吉継(「大谷刑部少輔」)が討ち死にしたという知らせが西洞院時慶に届く。 義演もまた大坂からの帰路に「京方」の大敗を聞く。また大津城の毛利勢撤退を聞き、避難の用意をする。 |
時慶記・義演准后日記 |
十八日(晴) | 寧(「北政所殿」)、京都新城から勧修寺晴子(「准后御方」)の屋敷に居を移す。 | 時慶記 |
徳川家康(「内府」)が大津城へ入り、福島正則(「福島」)がこれを受け取る。 午前に伏見の森家屋敷が焼け、夜更けに寺町にて騒動があるなど混乱が続く。 | 孝亮宿禰記 | |
寧(「政所」)、秀吉月忌につき豊国社へ社参し、太刀装束を奉納する。 | 舜旧記 | |
十九日(晴) | 小早川秀秋(「筑前中納言」)、寧(「北政所」)を見舞いに勧修寺晴子(「准后御方」)の屋敷を訪れる。 | 時慶記 |
義演、東軍の制札を求め金蓮院演照(「金蓮院」)を派遣し、まず福島正則(「福嶋左衛門大夫」)・池田輝政(「池田三左衛門」)、その後家康(「家康卿」)の制札を掲げる。 | 義演准后日記 | |
義演、秀吉(「大閣御所」)再建の坊舎を死守する。 | ||
二十日 | 孝蔵主、未だ大津に滞在。 | 時慶記 |
この日家康(時慶・義演「内府」、舜「内府家康」)、大津城に入る。 | 時慶記・義演准后日記・舜旧記 | |
二十一日(大雨) | 大坂の毛利輝元和議を計るという。 | 義演准后日記 |
二十二日(晴) | 寧(「北政所殿」)、この暁に京都新城へ帰る。 | 時慶記 |
二十三日 | 石田三成(「石田治部少輔」)が捕縛される(時慶)。また白画では安国寺恵瓊(「安國寺」)が捕縛され大津に引き渡される(孝亮)。 | 時慶記・孝亮宿禰記 |
二十四日(晴) | 孝亮、大津に赴き徳川家康(「内府」)に礼参する。この日、孝亮は越前国にて石田三成(「治部少輔」)が捕縛され大津に連行され、小西行長(「小西摂津守」)もまた捕縛されたことを聞く。 | 孝亮宿禰記 |
西洞院時慶、合戦に関わった孝蔵主のために清荒神(常施寺)にて祈祷を行う。大坂についての戦後処理が無事調う。 | 時慶記 | |
家康、公家衆に知行の加増を約する。 | 義演准后日記 | |
二十六日(晴) | 西洞院時慶、孝蔵主の無事を願い北野社で百度参りを行う。孝蔵主と同様北政所の侍女である東殿(大谷吉継の母)・その娘こや(大坂城で倉の管理をしていたことが『兼見卿記』に記されている)が捕縛される。 | 時慶記 |
秀頼(「秀頼様」)は大坂城本丸にて数人に警護される。 | 義演准后日記 | |
義演、石田三成(「石田治部少輔」)・安国寺恵瓊(「安國寺」)のほか、小西行長(「小西摂津守」)が生け捕られるのを見る。 | ||
毛利輝元は下屋敷を出、増田長盛(「増田右衛門尉」)は高野山へ逃れる。 | ||
二十七日(晴、初霜) | 徳川家康(孝亮・言経「内府」)この日大坂城に入り、秀頼(言経「秀頼卿」)が和睦をなす。 | 言経卿記・孝亮宿禰記(同月二十八日条) |
この夜、本願寺准如(光昭、「門跡」)が家康に会うために大坂へ赴く意志を示し、その同行について談合する。 | 孝亮宿禰記(同月二十八日条) | |
西洞院時慶、孝蔵主の無事を願い再び北野社で百度参りを行う | 時慶記 | |
二十八日 | 家康(「内府」)大坂へ入城し、毛利輝元は出城し本国へ帰る。前田玄以(「徳善院」)は金剛寺(「河内天野山」)に籠る。 | 義演准后日記 |
言経父子、大坂下向のため禁裏に暇を申し入れる。 | 言経卿記 | |
二十九日(陰) | 安国寺恵瓊(「安國寺」)、石田三成(「石田治部少輔」)、小西行長(「小西摂津守」)が大坂・堺を引き回される。 | 言経卿記 |
本願寺准如(光昭、「本願寺」、二十七日条参照)の大坂下向が延引される(翌三十一日・翌々十月一日にも同様の記載あり)。 | ||
三十日(天晴) | 長束正家(「長束大蔵」)、この日近江日野において自害する。 | 舜旧記 |
一日(晴) | 石田三成(義演「石田治部少輔」、孝亮「治部」、言経「治部少輔」)・小西行長(義演「小西摂津守」、孝亮「小西津守」、言経「摂津守」)・安国寺恵瓊(義演・孝亮・言経「安國寺」) 捕らえられ、洛中を引き回され、六条河原で斬首される。其の後首は三条河原に晒される。 (「孝亮宿禰記」では石田・安国寺・小西の順、「言経卿記」では安国寺・石田・小西の順で記載) | 義演准后日記・孝亮宿禰記(同月一日・二日条)・言経卿記・東福寺誌 |
二日(晴) | 本願寺准如(光昭、「本願寺」、二十七日条参照)、大坂へ下向する。 | 言経卿記(同年十一月十九日条) |
三日(晴、小雪) | 長束正家(義演「長束大蔵大輔」、孝亮「名束大蔵」)近江国で切腹し、その首が三条河原に晒される。 | 孝亮宿禰記・義演准后日記 |
四日(晴) | 義演、秀頼(「秀頼御所」)へ祈祷巻数を送る。 | 義演准后日記 |
寧(「政所」)の上臈(内)久(「御久」)より診脈の要望あり、「葉室」(言経母〔葉室頼継女〕縁者か?)が久を診察する。 | 言経卿記 | |
八日(陰、晩雨) | 「石子備前」(石川頼明ヵ)の首が三条河原に晒される。 | 義演准后日記 |
十日(晴) | 毛利輝元降伏する。 | 義演准后日記 |
十一日(天晴) | 寧(「政所」)、豊国社宝物殿へ琴二挺・唐団扇一ツ・装束・そのほか道具(秀吉の遺品か)を奉納する。 | 舜旧記 |
十三日(晴) | 西洞院時慶、孝蔵主の件について非常に心許ない旨を聞く。 | 時慶記 |
十四日(晴) | 西洞院時慶、孝蔵主が罪に問われずに済んだ旨を聞く。 | 時慶記 |
十五日(晴) | 諸大名に知行わけあり。福島正則(「福嶋左衛門大夫」)は備後・安芸の両国、毛利輝元は広島城を拝領する。 美濃(「美州」)の合戦から一ヶ月たち、義演は感無量の思いをつづる。 |
義演准后日記 |
十六日(雨) | 前田玄以(「徳善院」)、大坂に板屋左近丞(「左近丞」)を見舞いに遣わせる。 | 時慶記 |
十八日(晴) | 孝蔵主、数日前より大坂に滞在の記録。 | 時慶記 |
二十日(晴) | 義演、秀頼(「秀頼様」)へ折を進上し、大蔵卿局へ文を送る。 | 義演准后日記 |
前田玄以(「徳善院」)、河内金剛寺(「天野」)より大坂城へ戻る。 |
某日 | 徳川家康、安國寺恵瓊から没収した書籍を三要の二僧に与える。 | 東福寺誌(泰平年表) |
十八日(晴) | 徳川秀忠(孝亮:「江戸中納言」、言経「江戸中納言殿」)・徳川忠吉(孝亮:「下野守」、言経:「同下野守」)・前田玄以(「徳善院」)参内し儀定所にて後陽成天皇と対面、秀忠は太刀と馬代として銀子百枚を献上、忠吉は従四位下侍従となり、
馬代銀子三十枚と太刀を献上し、勧修寺晴豊・光豊父子が披露する。女中衆へも銀子などを送る。玄以は綿百把を献上する。 この日参会したものは、勧修寺晴豊(「勧修寺大納言」)・日野輝資(「日野大納言」)・日野資勝?(「日野新大納言」)・広橋兼勝(「広橋大納言」)・持明院基孝(「持明院中納言」)・正親町季秀(「権中納言」)・山科言経(「予」)・「式部大甫」・中院通勝?(「中院入道侍従前大納言」)・葉室頼宣(「葉室中納言」)・中御門資胤(「中御門中納言」)・高倉永孝(「藤宰相」)・「新宰相」・「左大弁宰相」・勧修寺光豊(「右大弁宰相」)・ 三条公広(「三条宰相中将」)・大炊御門経頼(「大炊御門大納言」)・花山院家雅(「花山院大納言」)・大炊御門頼国(「大炊御門三位中将」)・「三条三位中将」・「民部卿」・「右衛門督」・「益丸」・園基継(「基継朝臣」)・烏丸光広(「光広朝臣」)・五条為経(「為経朝臣」)・五辻之仲(「元仲朝臣」)・水無瀬氏成(「氏成朝臣」)・甘露寺経遠(「経遠朝臣」)・徳大寺実久(「実久朝臣」)・正親町季康(「季康朝臣」)・西園寺公益(「公益朝臣」)・冷泉為親(「為親朝臣」)・「実助朝臣」・阿野実顕(「実顕朝臣」)・ 四辻季継(「季継朝臣」)・冨小路秀直(「秀直朝臣」)・日野総光・柳原資俊・吉田兼治・「久修」・坊城俊昌・飛鳥井雅賢・西洞院時直・持明院基久・「教利」(言経孫?)・四条隆忠・日野光慶・山科言緒・中御門宗信・冷泉為満(「為満朝臣」)。役送は小槻高亮、大中臣種忠。 この日の朝、後陽成天皇が「不豫」を訴えるも「減気」により対面が実現したとの記録あり。 |
言経教記・孝亮宿禰記 |
十九日(晴) | この日、孝蔵主が大坂との文に関わる記事(欠字多)。 | 時慶記 |
言経卿記 | ||
二十一日(晴) | 寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子百目・石屏風二双を奉納する。 | 舜旧記 |
四日(雪不消) | 義演、茶阿局(「ちゃ阿」/豊臣家老女)へ一荷・一折を、伊茶局(「いちや」)へ折を遣わす。 | 義演准后日記 |
十八日(天晴) | 秀吉月忌だが、この日は寧(「政所」)社参なし。 | 舜旧記 |
十九日(天晴) | 九条兼孝(「九条殿」)関白に再任され、この日拝賀する。 | 義演准后日記 |
二十日(晴、少雨時々灑) | 秀頼(「秀頼様」)へ歳暮として祈祷巻数・折一合を進上する。また取次の大蔵卿局へ文と折を送る。 | 義演准后日記 |
九条兼孝(「九条殿」)、この日関白宣下を受ける。この還任は家康(「内府家康公」)による沙汰で、武家より摂家へ関白位の返納であるという。 | 舜旧記 | |
二十一日(晴) | この日、後陽成天皇三宮(母は女御近衛前子)が関白九条兼孝(「九条殿下」)を上卿として親王宣下を受ける(政仁親王、後の後水尾天皇)。 | 義演准后日記 |
寧(「政所」)、豊国社へ参詣し、銀子百目を奉納、神人らにも進物有。 | 舜旧記 | |
政仁親王(「女御腹之太子」)、親王宣下を受ける。 | ||
二十四日(天晴) | 梵舜、寧(「政所」)を訪ね、歳暮として菓子折を進物する。 | 舜旧記 |
二十九日(終日大雪) | この日、後陽成天皇生母・准后勧修寺晴子(「当今御袋准后ノ御方」)が関白九条忠栄(「九条御方御所」)を上卿として「新上東門院」の女院号宣下を受ける。 女院号宣下の上卿を摂家が務めるのは先例がないとの記述有。 | 義演准后日記(同月二十八日及び当日条) |