# 史料

慶長二(1597)年

※ []内は茶々姫の居場所

この年
茶々姫(「秀頼御袋」)の寄進により、石山寺礼堂・本堂を改築し、本尊如意輪観音像の彩色を改める。 時慶記(『淀殿』)
一月[大坂城本丸奥御殿]
一日 秀吉(「太閤秀吉公」)・秀頼(「御息秀頼」)、大坂で越年の記録。 義演准后日記
十五日(陰) 茶々姫(「秀頼御袋」)、義演に(祈祷の?)返礼として杉原十帖・縮一巻を送る。 義演准后日記
三月[大坂城本丸奥御殿]
二日(晴) 茶々姫(「御袋」)、醍醐寺大塔供養の施主を務める。義演、供養について茶々姫へ書状。 義演准后日記
十一日(晴) 龍(「大閤北御方佐々木京極女御」)の発願で山城誓願寺が再興され、この日供養が盛大に執り行われる。 言経卿記・義演准后日記
二十日(晴) 醍醐寺で御影供が執行され、茶々姫付きの女房(「太閤御所ノ北御方ノ女房衆」)が来山したとの記録。翌日の金剛峯寺大塔落慶法要から、「太閤御所ノ北御方」は茶々姫、その女房は大蔵卿局であろう。法要の打ち合わせか。 義演准后日記
二十一日 茶々姫(「前関白秀吉公之北御方 江州浅井備前守御息女」)、両親の供養のため金剛峯寺大塔を修築する。この日義演が導師となり落慶供養がおこなわれる。法要には勅使として勧修寺晴豊(「勧修寺大納言殿」)、中山慶親(「中山殿」)が参詣する。 続宝簡集
四月[大坂城本丸奥御殿]
四日 秀吉、伏見木幡山城から大坂城へ移る。 (『淀殿』)
二十日 秀吉、大坂城城門掟十三箇条を定め、 秀頼(「秀頼様」)・茶々姫(「御上様」)の居所奥御殿へ繋がる鉄御門の出入、及び本丸奥御殿における取り決めを定める。
内容は主に奥御殿における秀吉不在時の男子禁制の徹底だが、ここからは大坂城奥御殿は秀頼・茶々姫周辺の侍女に任されている様子から、秀頼の成長に伴って課される責任と共にその権力も大きくなりつつあることが伺われる。
(詳しく述べると、御奥からの文・切手、及び奥侍女の出入りは播磨局〔「はりま」〕と阿古御局〔「あこ」/秀頼・茶々姫付きの大上臈〕に、乗輿の女房の出入りについては大蔵卿局〔「大蔵卿」〕に一任された。)
生駒家宝簡集
二十五日 秀吉、前日に大坂城を発ち、この日上洛(二十七日に徳川家康〔「内府」〕・前田利家〔「前田大納言」〕と共に参内)。 孝亮宿禰記
二十六日 秀吉、聚楽第に変わる豊臣政権の京での拠点として禁裏の東南隣(義演:「内裏ノ東ワカセカ池ト云所」)に京都新城の縄張りを開始。 孝亮宿禰記・義演准后日記
五月[大坂城本丸奥御殿→伏見木幡山城西の丸]
九日(霧雨) 秀頼が翌十日に伏見城へ移徙する風聞が流れる。 義演准后日記
十日(晴) 千姫、徳川秀忠(「江戸黄門」)と督(江)の長女として伏見徳川屋敷にて誕生。
(『徳川実紀』では慶長元年四月十一日、『幕府祚胤伝』)では慶長二年四月十一日とし、それぞれ伏見城にて誕生とある。福田千鶴氏は『江の生涯』において、伏見城はまだ徳川家の支配下にないことから、秀忠の屋敷か産穢を避けて家臣の屋敷で出産したのではないかと推測されている。)
言経卿記(同月十四日条)・徳川実紀(台徳院殿御実紀)・『江の生涯』
十四日(晴) 茶々姫、秀吉(「大閤」)・秀頼(「同若公」)にしたがって舟で大坂城本丸奥御殿から伏見木幡山城西の丸へ移る。 秀頼、近々参内するとの話あり。 言経卿記・義演准后日記
十七日(晴) 秀頼(言経「御拾様」・「御ヒロイ様」、鹿苑「秀頼公」)の伏見移住の祝として、禁裏より伝奏を通じて銀子を賜う。
八条宮(智仁親王、後陽成天皇の弟宮/「八条殿」)・伏見宮(邦房親王、伏見宮九代当主で正親町帝猶子/「伏見殿」)・摂家・門跡衆・清華以下悉くが礼参。
秀吉(鹿苑「大閤公」)・秀頼父子、夏の引直衣で参会。
言経卿記・鹿苑日録
十九日(陰) 秀頼(「秀頼御所」)・「北政所」(寧?茶々姫?)へ義演より毎月の祈祷巻数が進上される。 義演准后日記
二十二日 秀吉(孝亮「太閤」、鹿苑「大閤」)、上洛し京都新城(鹿苑「御屋敷」)の建築を監督する。 孝亮宿禰記・鹿苑日録
七月[伏見木幡山城西の丸]
二十九日 秀吉(孝亮「太閤」)上洛し、唐から連れてきた象を禁裏に披露する。 孝亮宿禰記
八月[伏見木幡山城西の丸]
二十八日 足利義昭、大坂に薨ず。六十一歳。霊陽院殿准三宮昌山道桂大禅定門と諡する。 義演准后日記
九月[伏見木幡山城西の丸→京都新城?]
四日(晴) 来る十二日に秀頼が京都新城へ移徙し、十四・十五日に参内するとの話が伝わる。 義演准后日記
六日(晴) 義演、寧(「大相国北政所」)・茶々姫(「秀頼御袋」)へ毎月の祈祷巻数と折一合を送り、その返礼として寧より鵝眼三結・茶々姫より鵝眼五結を賜る。 義演准后日記
八日(陰) 十四・十五日に秀頼(「秀頼」)が京都新城へ移り、禁中にて元服との噂。そのため摂関家へ元服のしきたりの問答がなされる。 なお、秀頼について「当年五歳也」との注記あり。 義演准后日記
二十四日 大谷吉継(「大谷刑部少輔」)宅で秀吉(「大閤」)・秀頼(「秀頼様」)・寧(「政所様」)・茶々姫(「北政所様」)たちが接待をうける。 鹿苑寺住職同行し、その大谷家の所領に見合わぬ接待や進物の豪華さに驚く。 鹿苑日録
二十五日(陰・時雨) 秀吉(言経「大閤」、義演「太閤御所」)、秀頼に先駆けて上洛。 義演准后日記・言経卿記(同月二十六日条)
二十六日(晴) 秀頼(義演「秀頼」、言経「同若公」、鹿苑「秀頼様 若公」)父子、上洛し京都新城(「京都禁裏辰巳角新宅」)へ入る。徳川家康(「江戸内府」ら諸大名)、これに供奉し、来る二十八日に参内し元服するとのこと。なお、このときに茶々姫の同道があったかは不明。 義演准后日記・言経卿記・鹿苑日録
二十八日(晴後曇) 秀吉(言経・義演「大閤」)・秀頼(義演「秀頼」、言経「同若公」)父子参内し、秀頼、四位中将(義演/言経ではこの時点では「近衛権少将」と記される)に任じられる。 家康(「江戸内府」)、秀頼に供奉して参内。摂家はこのときことごとく参内する。 義演准后日記・言経卿記
二十九日(晴陰) 秀頼(「大閤若公」)、近衛権中将に任じられる。 言経卿記
三十日(晴) 秀吉・秀頼の京都新城(「新宅ノ亭」)移徙への礼参がなされない旨の触れが出される。 義演准后日記
十月[伏見木幡山城西の丸]
一日 秀吉、この日も京都新城の普請を監督するが、その最中に松葉で目を突いて怪我をする。 鹿苑日録(同月二日条)
二日(午後より雨) 秀吉、前日の怪我を医師に診てもらう。前田利家(「加賀大納言殿」)が上洛し、秀吉(「大閤」)に秀頼(「秀頼公」)の手紙を持参する。 鹿苑日録
十日 予定時間より遅れて秀吉(「大閤」)・秀頼父子、上洛。このときもまた、茶々姫の同道があったかは不明。 言経卿記(同月十一日条)・鹿苑日録
十二日(晴) 秀吉(「大閤」)・秀頼(「同若公」)父子、前日に上洛した家康を従えて伏見城へ帰還。 言経卿記・鹿苑日録
十八日 秀吉(「大閤」)伏見城の普請を監督する。 鹿苑日録
十八日 秀吉(「大閤」)、京極高知(「京極修理大夫殿」)に会う。 鹿苑日録
二十二日 秀吉(「大閤」)、前田利家(「加賀大納言」)に会う。午後に秀頼(「秀頼公」)も合流する。 鹿苑日録
二十六日 秀吉(「大閤」)、伊達政宗(「大崎少将」)に会う。政宗、秀吉に小袖二十、寧(「政所様」)と茶々姫(「秀頼公之御母儀」)に「ベン花」千斤、 秀頼(「秀頼公」)に「ミツタダ」の剣・服三重・茶道具一飾を献ずる。 鹿苑日録
二十七日 秀吉(「大閤」)、京極高次(「大津宰相殿」)屋敷へ赴く。
秀吉、この夜俄に発病する。
鹿苑日録
十一月[伏見木幡山城西の丸]
一日 秀吉(「大閤」)、病状が少し改善する。 鹿苑日録
五日 秀吉(「大閤」)、午後に伏見城西の丸へ赴く。 鹿苑日録
十二月[伏見木幡山城西の丸]
十二日 「北政所殿」(寧?茶々姫?)、鹿苑寺へ使いを出す。 鹿苑日録


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