# 史料

天正二十・文禄元(1592)年

※ []内は茶々姫の居場所
二月[大阪城二の丸]
二十四日 小吉秀勝、八千の軍勢を率い肥前名護屋城から壱岐国へ渡る。 浅野家文書(『浅井三姉妹の真実』)
三月[大阪城二の丸→]
一日 この日、秀吉の名護屋へ出陣が予定されていたが、大軍での出兵につきしばらく延期となる。 太閤さま軍記のうち
二十六日 秀吉(「太閤秀吉」)、京より名護屋へ出陣する。後陽成天皇(「みかど」)これを見るという。秀次(「関白秀次卿」)「むかふのみや」まで送る。
「太閤さま軍記のうち」では関東での吉例により、茶々姫(「北政所」)、京極龍(「佐々木京極さま」)に孝蔵主、「おちゃ」(茶阿局?)を添えられ、服部土佐、御牧勘兵衛、大野木甚之丞、稲田清蔵、荒川銀右衛門、太田又助が供奉し、輿の数は五十以上、馬上の女たちは百騎以上の美々しき装いであったという。

  • 『太閤さま軍記のうち』に見てる出陣の様子
    「馬上の御きらあたりをはらつて、結構申すばかりなし。ひいづるほどの御いでたち、ことにすぐれて、華やかなり。御馬廻金襴、錦紗、唐縫、唐錦、いろ/\さま/\゛金銀をもつてみがきたて、具足はくわはん紅におどしたて、冑は金にしはんのこざし物一とうなり。面々のたくみあり、ひたかぶとのををしめ、馬には金の鎧をかけ、豹・虎の鞍おほひあふりなり。おしかけ、しりがひ、三尺縄、紅の大ふさ、ありとあらゆる御たくみ、われ劣らじと、美々しくいでたち、いづれをいづれとも申しがたし。天に輝き地にかがやき、勇み勇んで駆けさせて、本朝とたい国とはだへを合せ、きりくづし、末世のおぼえ、家の面目、この節とおよぶほどの結構おびただしき次第、みかど御叡覧あつて、おもしろくおぼしめし、叡感ななめならず。」
  • 太閤さま軍記のうち
    二十七日 兵庫で、増田長盛(「増田右衛門尉」)邸に宿泊する。 太閤さま軍記のうち
    二十八日 未明に兵庫を発ち、明石にて暫時休息する。中島左兵衛が食事を用意し、毛利九郎左衛門家中が接待する。加古川のはたにある糟谷内膳が茶屋を構え一献進上する。その日、姫路城の木下家定(「木下肥後守」)邸に宿泊する。 太閤さま軍記のうち
    二十九日 夜明けに姫路を発ち、飾磨より船に乗り、岡山にて宿泊し、以降七日逗留する。
    京極龍(「京極さま」)は片上へ向かう。
    太閤さま軍記のうち
    三十日 京極龍(「京極さま」)、この日岡山へ着座する。 太閤さま軍記のうち
    四月[→名護屋城]
    七日 岡山を出発し、備中の「うちやかけ」にて休息、神辺(広島)の三法師にて宿泊。 太閤さま軍記のうち
    八日 備後の三原に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    十日 毛利輝元(「安芸宰相」)邸に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    十一日 広島に宿泊し、三日逗留する。毛利輝元息秀元(「右京大夫」/輝元養子)へ光忠の御剣を下賜する。 太閤さま軍記のうち
    十五日 広島を出発する。秀吉(「太閤さま」)らは草津より乗船し、厳島神社に参詣する。この日は「たかもり」に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    十六日 「はなをり」に宿泊する。 太閤さま軍記のうち
    十七日 周防の天神御講に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    十八日 長門の「はぶ」に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    十九日 「はぶ」を出発し、馬関海峡を訪れ、小倉の毛利勝信(「毛利壱岐守」)邸へ宿泊する。 太閤さま軍記のうち
    二十日 宗像(福岡県)に宿泊。 太閤さま軍記のうち
    二十一日 名島に宿泊。毛利輝元(「輝元」)、分国一里ごとに茶屋を立て、安国寺恵瓊家中に接待させる。 太閤さま軍記のうち
    二十四日 名島を出発し、昼前に深江まで到着する。ここで朝鮮からの吉報が入り、小西幸長(「小西津守」)、対馬義成(「対馬侍従」)の手引きで四月十二日に釜山に至り勝利を収め、一人を捕虜とした旨報告を受け、勝ち鬨をあげる。 太閤さま軍記のうち
    二十五日 秀吉、名護屋へ着陣する。
    佐竹家家臣平塚瀧俊、御日書状にてこの日の様子を留守居の者に送る。
    秀吉は「作り鬚」、「作り撫で付」、「一束に髪を結わせられ候」。行列は、靫を白布に包み高々と付け、鞘が唐木で色の太刀を佩き、馬廻衆は五十人ほどで、猩々緋の羽織に鞘張りを差し、石つきの金の棒を張り、紅の腕貫を付けた出で立ちであった。その悉くの仕立てに鍬を金に出し、片削りが施されていた。召し替えのための馬は七十五匹ほどで、ほとんどが鞍を布かれ、唐織の錦、金襴、金銀の馬鎧、龍面を掛けられていた。
    輿は七丁で、この支度も見事なものであった。茶々姫(「よとの御前様」)が同行していると聞いているけれど、この七丁野うちにいたかどうか平塚は知らない。茶々姫同行については、小田原(「相州」)出陣のときも茶々姫(「御台様」)が同行し、首尾よい結果が得られたためその吉例に倣うということだという。
    その他、金銀で飾られた小荷駄が三十余り。
    平塚瀧俊書状(『豊太閤の私的生活』)、太閤さま軍記のうち
    七月[名護屋城]
    二十日 夜、秀吉、山里の数寄屋にて雑談する。本丸へ帰り、暁方に大坂より大政所重篤の急報を得る。 太閤さま軍記のうち
    二十二日 秀吉(「太閤さま」)、大政所見舞のため、この日名護屋を発し急ぎ上洛する。 太閤さま軍記のうち
    早朝、大政所、病没する。 多聞院日記、言経卿記
    八月[名護屋城]
    二日 秀吉、大坂に着陣する。 太閤さま軍記のうち
    六日 大政所の葬儀が大徳寺にて行われる。翌日、蓮台野にて火葬される。七十六歳という(多聞院)。 言経卿記、多聞院日記ほか
    七日 巳刻、大徳寺より蓮台野にて火葬される。 言経卿記、多聞院日記ほか
    二十一日 秀吉(「太閤秀吉卿」)、伏見指月へ赴き、ここに築城する旨発表し、秀次(「関白殿」)家臣衆へ普請を申しつける。また、大坂城の普請については年寄衆に申しつける。 太閤さま軍記のうち
    十月[名護屋城]
    一日 秀吉、この日名護屋に着く。
  • 名護屋城の様子
    秀吉不在の間に名護屋城築城が完成。本丸は高山になっており、風が激しいので、寒い間派山里丸に滞在するようにしたらしい。
  • 太閤さま軍記のうち


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