一日 |
秀吉、大政所(「大まんところ殿さま」)への書状にて、年内に鶴松(「わかきみ(若公)」)と大政所へ参会することを約する。 |
妙法院文書(『太閤書信』) |
七日 |
秀吉、茶々姫(「淀之女房衆」)の小田原下向について吉川広家(「吉川侍従」)朱印状を発給する。
追而申候。いなた(稲田)清蔵火急に遣候間、つき(継)馬を以可送之候、不可有油断候。以上。
淀之女房衆召下候付而、為迎稲田清蔵差越候、然者、下向之日限重而可令案内旨申付候条、新庄駿河守(直頼)、稲田清蔵左右次第、傳馬夫令用意相待、早速可送候。次泊々賄等之儀、清蔵可申渡之間、馳走可悦思食候。猶以、路次無滞様に可入精事肝要候也。
(天正十八年)五月七日 (秀吉朱印)
岡崎 吉川侍従(広家)とのへ
猶、ほぼ同文の朱印状が新庄直頼(近江坂本城主)と一柳越後守に対して発給されている。 |
吉川家文書(『太閤書信』) |
この頃 |
茶々姫(「北の御方」)・京極龍(「佐々木京極さま」)、京都を発し小田原へ向かう。
『太閤さま軍記のうち』の伝える茶々姫らの小田原ゆき
「…さだめて、国々所々にて、御てま入るべきのあひだ、諸卒も、かね/\゛見をよび、たいくつなく、その覚悟ぞんじ候やうにと、おぼしめされ候か、北の御方(茶々姫)・佐々木京極さま(龍)御同陣なされ候ける。御輿数三十余丁、馬乗の御女房衆六十余騎なり。
供奉之衆
新庄駿河守・草野二郎右衛門・大野木甚之丞・一柳越後守
御とも申され候なり。
御物奉行
稲田清蔵・荒川金右衛門
かやうに、おほせつけられ、路次すがら御警固にて、関白殿御あとより御参陣候なり。」
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『太閤さま軍記のうち』・福田千鶴『淀殿』 |
十四日 |
秀吉(「てんか」)、寧(「まんところ殿」)からの手紙に返信する。
寧から鶴松(「わかきみ(若公)」)・大政所(「大まんところ殿」)・「五おひめ」(豪姫?小姫?)・きん吾(後の小早川秀秋)・寧(「そもじさま」)が壮健である旨を聞き、秀吉はそれに安堵している。「いよ/\わかきみ(若公)御ひとね候へく候」とあり(「ひとね」=養育するの方言)、茶々姫不在の聚楽第で、鶴松が寧に任せられていることが分かる。 |
小山文書(『太閤書信』) |
下旬頃 |
秀吉(「てんか」)、寧(「まんところ殿」)へ戦況などを音信する。
書状で大政所(「大まんところ殿」)・寧(「そもし」)・鶴松(「わかきみ(若公)」)・小姫(「おひめ」)・きん五(後の小早川秀秋)の息災を尋ねている。
末尾にはおそらく茶々姫を指すであろう「大さか殿(大坂殿)も久しく」と続くが、以降欠けているため正確な内容は不明。茶々姫が鶴松と久しく離れていることから、会いたがっている旨を伝えたものか、もしくは茶々姫の壮健を寧へ伝えたものか。 |
篠崎文書(『太閤書信』) |
十日 |
秀吉、茶々姫(「淀女房衆」)帰洛について小早川隆景(「羽柴筑前侍従」)、吉川広家(「羽柴新庄侍従」)へ朱印状を発給する。
急度被仰遣候、小田原之儀、北条被為刎首、平均被仰付、此表悉被隙明候条、淀女房衆被差上候、然者来十五日三枚橋迄可相着候、成其心得兼日令用意、小荷駄三十疋、夫丸六百人申付、路次無滞相越候様、馳走肝要候、留々如書付大津迄可為十一留候、猶山中橘内(長俊)可申候也、
(天正十八年)七月十日 (秀吉朱印)
清須とまり羽柴筑前侍従(隆景)とのへ
岡崎とまり羽柴新庄侍従(広家)とのへ
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吉川家文書 |
十二日 |
秀吉、寧(「まんどころ殿」)に茶々姫(「よとの五(淀の御)」)を十五日帰洛させる旨書状を出す。
また、この日より前、鶴松(「わかきみ(若公)」)が寧の支度で金吾(後の小早川秀秋)・小姫と共に盂蘭盆会の生御霊を秀吉に送ったことが記されている。特に鶴松は、同時に黄金五十枚も送り、これを喜んだ秀吉がその場で金配りを行ったらしい。
かへす/\、十七日にあいつ(会津)へ参候間、やがて/\、ひま(隙)あけ候て、九月中にはかならす/\上可申候まゝ、御心やすく候へく候。それにつき、はやよとの五(淀の御)お(を)も十五日に上申候。めでたく、かしく。まんどころ(政所)殿。てんか。
文給候。御うれしく候。わかきみ(若公/鶴松)・きん五(金吾)・おひめ(小姫)、いきひたま(生御魂)給候。いく久しくとゆわ(祝)ひ入候。ことににわかきみ(若公)殿よりきかね(黄金)五十まい給候。ふくろ(袋)のしたて(仕立)み事(見事)にて候。其もしたんこう(談合)候て、あみの事給候やらん存候。はやはや小たわら(小田原)とり、うちまさ(氏政)・同六つのかみ(陸奥守/氏照)両人のくひ(首)さしのほ(差上)せ候。さためて此文よりさきにのほり可申候。わかきみ(若公)殿より給候いきひたま(生御魂)のかね(金)まいり候おりふし(折節)、ほうてうくひ(北条首)も同ひ(日)まいり候間、其さすじゅ(座敷)にい(居)申物(者)ともに一まいつゝと(取)らせ申候。とりはけ(取分)めてたく候。かしく。
(天正十八年)七月十二日 |
箱根神社文書(『太閤書信』) |
十四日 |
長束正家、茶々姫(「御上様」)の帰洛について十五日出発する旨を小早川隆景と吉川広家に書状を送る。
明日十五日、御上様被成御上洛候、然者、人足添馬之事、最前被仰出候外ニ、重而人足百人、新庄駿河守(直頼)、一柳越後守両人ヘ可有御渡候旨、 御諚候、人足並添馬前後之分、一度ニ入申儀候、無御由断、兼日有御用意、可有御侍候恐惶謹言、
長束大蔵大輔
(天正十八年)七月十四日 正家(花押)
羽柴筑前侍従殿(小早川隆景)
羽柴新城侍従殿(吉川広家)
人々御中
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小早川文書 |
十五日 |
茶々姫(「御上様」)、小田原を発し京都へ向かう。 |
『吉川家文書』、箱根神社文書(桑田忠親『太閤の手紙』)、『小早川文書』(福田千鶴『淀殿』) |
二十九日 |
鶴松(「淀ノ若君」)が煩い、南井坊・興福寺(多聞院)・金勝院に祈祷の申し入れがある。
この記事に「淀ノ若君」とあることから、この時期聚楽第から淀城へ下ったか。 |
多聞院日記 |
この月 |
小吉秀勝、小田原での戦功により甲斐府中城を与えられる。 |
『浅井三姉妹の真実』 |