# 史料

天正十七(1589)年

※ []内は茶々姫の居場所

この年
冬頃 小吉秀勝、丹波亀山城から美濃大垣城に移り、以降「大垣少将」呼ばれる。 (『浅井三姉妹の真実』)
一月[茨木城?]
二十三日 羽柴秀長(「大納言殿」)、淀城普請の記事。 多聞院日記
二月[茨木城?]
十八日 羽柴秀長(「大納言殿」)、淀城普請の記事。 多聞院日記
二十日 羽柴秀長(「大納言殿」)、淀城普請の記事。 多聞院日記
三月[茨木城?]
四日 寧(「関白殿ノ北政所」)、天王寺五重塔建立を志す。 多聞院日記
三〜四月[茨木城→淀城]
某日 茶々姫、秀吉により淀城に移される。 その際、叔父で後見人の織田長益、浅井一族の浅井大膳介(喜八郎ヵ)、弟の正芸(「蒼玉寅首座」)などが付き添いとして伴い、棄丸(鶴松)出産に立ち会う。(桑田忠親『淀君』/小和田哲男『戦国三姉妹物語』/渡辺世祐『豊太閤の私的生活』/福田千鶴『淀殿』) (原史料調査中)
四月[淀城?]
十四日 羽柴秀長(「大納言殿」)、淀に滞在。 多聞院日記
某日 蒲生氏郷、棄丸(倭「すて君」、塩「豊臣秀吉公令子棄君」)生誕を祝して蒲生家秘蔵の矢根(蒲生氏先祖秀郷由来のもの)を贈うぃ、鶴松の死後妙心寺に収められているという。 倭訓栞・塩尻
五月[淀城]
二十七日(晴) 茶々姫(御湯殿・言経「淀ノ女房衆」/多聞院「淀ノ御内」/鹿苑「淀之御上江州浅井息女。」)、淀城にて棄丸(後の鶴松/「若君」…湯殿・「若公」…言経・鹿苑)を出産する。
  • 湯殿(二十八日条): 「くわんはく(関白)よとの女はうしゆ(淀の女房衆)に若君いてきたるとてひしめきなり。」
  • 言経(二十七日条):「殿下(秀吉)淀ノ女房衆(茶々姫)ニ若公(鶴松)御誕生也云々、珍重珍重、」
  • 多聞院日記(晦日条):「去二十八日(二十七日の間違いか)関白殿ノ淀ノ御内男子誕生云々、事々数祝著云々、」
  • 鹿苑日録(二十八日条):「関白殿淀之御上。江州浅井息女。若公誕生。」
  • お湯殿の上の日記・言経卿記・鹿苑日録・多聞院日記
    三十日 朝廷より淀城へ棄丸誕生の祝いに女房(「女中衆」)が遣わされる。 後陽成天皇女御近衛前子(「女御」)から茶々姫(「御ふくろ」)へ三重・樽が贈られたのを始めとして人々から贈り物が茶々姫に届けられる。 お湯殿の上の日記
    六月[淀城]
    六日 淀城において、僧侶たち(「法中之衆」)による棄丸(「若公」)誕生祝いの秀吉(「殿下」」)への総礼が行われる。
  • 「今日於淀。法中之衆殿下へ御禮。若公御誕生之賀儀也。(中略)殿下五十余歳而始有当璧之命。 天下列侯洛中洛外伺候而以賀。蒼玉寅主座者。其娭(族?)大膳介也。検地之時。蒼玉領勘落(横領・没収の意)。 其以来似僧非僧。似俗非俗。其形雖類蝙蝠。今度御誕生。宗領之大膳介幼少也。他家也。寅首座者雖不継宗領之家。 其娭(同上)大膳介子也。故出以御薬進上。無異儀御誕生也。」
  • 鹿苑日録
    十三日(晴) 顕尊(興正院佐超。本願寺顕如の次男/「興門」)、棄丸誕生の祝賀に上洛する。 言経卿記
    十五日(雨のち晴、入夜小雨) 本願寺顕如(光佐/「門跡」)・教如(光寿/「同新門」)・顕尊(「興正院佐超/興門」)の父子、棄丸(「殿下若公」)誕生の祝賀に淀城を訪問する。
    顕如より秀吉へ銀子十枚・金御太刀、棄丸へ銀子五十枚・金御太刀、教如より秀吉・棄丸父子へ銀子三十枚・金御太刀、顕尊より秀吉・棄丸父子へ銀子十枚ずつと金御太刀が贈られる。
    言経卿記
    十六日(晴) 秀吉、大坂城へ移る。これは八月に行われる棄丸大坂移徙準備の一貫か(福田千鶴『淀殿』) 言経卿記
    某日 秀吉(「関白殿」)、母大政所(「関白殿御ふくろ」)の病につき北野社(「天神様」)へ立願し、福島正則(「福島左右衛門大夫殿」)を使者として一万石の朱印状を寄進する。 北野社家日記
    七月[淀城]
    二十三日 秀吉、大坂城へ移る。 これもまた六月十六日と同様、八月に行われる鶴松大坂移徙準備の一貫か(福田千鶴『淀殿』) 言経卿記
    八月[淀城→大坂城二の丸?]
    某日 秀吉、鶴松の大坂移徙に備えて大坂城本丸の鉄(くろがね)御門(本丸奥御殿の入り口に当たる)の番に関する掟を定め、御奥の出入りへの管理を徹底する。(福田千鶴『淀殿』) 言経卿記
    十三日(雨) 豊臣秀勝(秀吉の甥で養子の小吉。後にお江の夫/「関白殿おい子・少将殿」)、知行の加増を望み秀吉の怒りに触れて高野に追放され、切腹するとの虚報が北野へ流れる。 北野社家日記
    十九日 秀吉、棄丸の大坂移徙に備えて上洛。移徙についての最終的な打ち合わせを行ったものと思われる。 言経卿記
    二十日(晴) 秀吉の養女豪(前田利家女)、宇喜多秀家(「うき田殿」)の子孫九郎を出産した記事が見える。 北野社家日記
    二十二日(雨) 茶々姫(「関白殿の淀之上様」)、養命坊に命じて北野社経王堂にて千部読経が行わせる。
    これは翌二十三日の棄丸大坂移徙の無事を祈願したものか(『淀殿』)。
    北野社家日記・お湯殿の上の日記
    秀吉、この日に大坂へ下向する(翌日移徙する棄丸を迎えるため〔言経〕)。 北野社家日記
    二十三日 棄丸改め鶴松(「若公」)、誕生後初めて淀城を出て大坂へ移徙する。
    付き従う諸大夫は皆悉く衣冠姿で供や前駆を務める。鶴松の輿は美麗の限りが尽くされ、貴賎群衆が皆見物した。なお、秀吉(「殿下」)は前日(北野社家日記)に鶴松より先に大坂へ移り、鶴松を出迎えた。
    また、このとき茶々姫も鶴松に伴い大坂に移ったものを推測される。
    言経日記
    このころ(五月二十七日から八月二十二日までの某日/鶴松誕生から鶴松大坂移徙までの間に秀吉が上洛していた期間)、
    秀吉(「てんか」)が鶴松(「つるまつ殿」)の大坂下向に関し、寧へ報告する。(宛名は寧の侍女「こや」)
    同時に小姫(「おひめ」)も大坂へ下したこともこの書状に記されている。

    鶴松・茶々姫母子を大坂に移住させるに当たりその侍女なども大坂に入るため、 当時病がちであった大政所が環境の変化に気疲れすることなどを案じ、鶴松と一緒に小姫も大坂城に移した上で大政所(もしくは寧も)聚楽第に移ることを提案したらしいことが伺われる。 また実際に環境の変化に大政所やお寧の女中たちが何らかの不都合を働いたらしいこともわかる。(福田千鶴『淀殿』)。
    雙林寺文書(『太閤所信』)
    二十九日 豊臣家老女孝蔵主(「かうさうす」)、祈祷のために妙蔵院禅祐・松梅院禅興へ白銀一枚ずつ送る。 北野社家日記
    三十日
    某日 フロイスの記事によると、秀吉は浅野長吉(「浅野弾正」)を鶴松の守役とし、摂津の国を鶴松の養育費に当てたという。(福田千鶴『淀殿』) 日本史(ルイス・フロイス)
    九月[大坂城二の丸?→聚楽第→大坂城二の丸?]
    一日 秀吉、諸大名に対して妻子の上洛を命じる。 多聞院日記
    五日(晴) 寧(「政所さま」)、大坂城から聚楽第へ移る。
    福田氏によると、これは同月一日に秀吉により命じられた諸大名の妻子を管轄するためのもので、鶴松との対面を済ませた後に聚楽第に移ったものらしい。(『淀殿』)
    北野社家日記
    八日 寧(「政所さま」)・大政所(「大政所さま」)より北野社へニ巻の巻数が届く。
    このとき大蔵卿局(「大蔵卿」)も一巻贈っていることから、この巻数は鶴松に関する祈祷の巻数ではないだろうか。
    北野社家日記(同月九日条)
    十二日 鶴松(「くわんはくわかみや〔「わかきみ」の誤りか〕」)、大坂城へ移されるという知らせが朝廷に届く。武家はもちろん公家も摂家清華家に至るまでが鶴松を見送りに赴く。 お湯殿の上の日記
    十三日 鶴松(「くはんはく若きみ」)の大坂移徙に、朝廷から祝いとして太刀が贈られる。使者は勧修寺晴豊(「くわんしゆ寺大納言」)。 お湯殿の上の日記
    十月[大坂城二の丸?]
    四日 衛門輔(「えもんのすけ」)、 鶴松(「くわんはくわかみや〔「わかきみ」の誤りか〕」)の薬師として大坂に下る。 お湯殿の上の日記(同月三日条)
    十二日 棄丸(「くはんはく若きみ」)の大坂移徙に、朝廷から祝いとして太刀が贈られる、。 お湯殿の上の日記
    十二月[大坂城?]
    この月 「有人」(茶々姫か)、父浅井長政の十七回忌にあたり画工に長政の画像を描かせ、 その讃文を南禅寺の練甫宗純に書かせ、高野山小坊(現在の持明院)に納める。対となる市の画像はこの時同時に納められたとも言われることが多いが、賛がないなどの理由により、後年納められたともいわれる。 持明院蔵浅井長政画像


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