# 茶々姫概略

名: 浅井茶々

生年: 永禄十二(1569)年?
(近年まで「翁草」の記載している説のひとつである永禄十年説が有力視されていましたが、近年では井上安代氏による「有気」に関する記事の研究成果をうけて、この生年が最も信用されています。)
没年: 慶長二十(1615)年五月八日

星座:八白土星(井上安代『豊臣秀頼』)

cf.大坂の陣戦死者記録に見る享年
  • 享年三十九歳説…「井伊年譜」、「大坂御陣覚書」
  • 享年四十九歳説…「翁草」(三十九歳、四十歳、四十五歳説も記載アリ)
  • 本姓: 藤原氏

    本名:ちゃちゃ(豊臣太閤素性記)、茶々(浅井家譜、古代氏族系譜集成)
    呼称:淀ノ御方(豊臣太閤素性記)
    史料に見える茶々姫の呼称等の変遷

    異伝:知也(諸系譜)ちや(真書太閤記)、菊(太閤真顕記)、菊子(諸系譜、古代氏族系譜集成)、野々(翁草)

    官位:
    お寧の従一位よりは下位と推測されるが、茶々姫の侍女が大上臈身分なので少なくとも無位ではないはず。
    これまで茶々姫を側室として捉えられていたことから「従五位下」ともいわれていましたが、「従五位」相等の大上臈身分である大蔵卿局、三位局などが茶々姫の侍女にいるため、主である茶々姫は少なくともそれよりも上位であることが推測できます。
    福田千鶴先生は、茶々姫が正式な妻の一人として扱われていたことから、関白夫人の一般的な位である従三位相当であったのではないかと論じられています(『淀殿』)。

    戒名・院号:

  • 大虞院殿英岩大禅定尼 …養源院位牌、歓喜光寺位牌、三宝寺供養塔
  • 大虞院殿英岩大禅尼 …常高寺過去帳
  • 大虞院殿莫岩大禅定尼 …相州鎌倉松岡過去帳
  • 大虞院殿春巌大姉 …清涼寺過去帳
  • 大虞院英岩 …浅井系図、系図纂要、翁草
  • 大広院殿英ー …古代氏族系譜集成
  • 大康院殿 …浅井系統一覧
  • 江雲院晴月 …東西歴覧記(善正寺過去帳)
  • 大淀院(大虞院)英岩 …太融寺寺伝
  • 大虞院花顔妙香 …翁草
  • 淀光院 …翁草
  • 位牌:養源院、善正寺(現存せず)
    墓所: 太融寺、大坂城内(供養塔)、鴫野神社(現存せず)、元景寺?(群馬)

    父: 浅井長政
    母: 織田市(織田信秀女)
    子: 鶴松(棄丸、八幡太郎)、秀頼(拾丸)
    猶子: 羽柴完子(さだこ/九条忠栄〔幸家〕室/父は羽柴〔小吉〕秀勝、母は江)


    姫の遺品

    〔現存〕
  • 金厨子入弁才天(養源院蔵) …茶々姫の持仏であったと伝えられています。姪の東福門院に伝わり現存。
  • 秋草文彩画団扇(大坂城天守閣蔵) …茶々姫所用の団扇と伝えられています。
  • 伝 淀殿所用扇子(財団法人宇野茶道美術館蔵) …この扇子に書かれた『金槐和歌集』の和歌は姫の直筆と伝わります。
  • 茶々姫の小袖打掛(福田寺所蔵) …黒地に美しい模様(花や葉など)をあしらった打掛。原型はほとんど残っていないとか…残念。
  • 綾地金絢襴帯(奈良廊坊家蔵) …茶々姫の帯と伝えられています。
  • 伝淀殿所用小袖(松坂屋染織資料参考館蔵) …桃山時代独特の華やかで豪華な小袖。茶々姫所蔵という伝えの根拠は不明(豪奢さのみが根拠だとしたら後付感が否めません…)。


  • 〔刀〕
  • 浅井一文字 …父長政の愛刀。大坂落城寸前まで茶々姫の手元にあった。関東大震災で焼失。
  • 来国光 …茶々姫の懐刀であったという短刀。現在行方不明。
       ※ 「浅井三代記」には茶々姫の曽祖父、亮政以来の所有の懐刀として来国光が登場するが、関連性は不明。


  • 〔補記〕
  • 桃山時代衣裳裂(丸紅所蔵) …「ふしみ(伏見)殿」=茶々姫という前提の下、姫の打掛として有名ですが、 茶々姫が伏見城にいたころ「西の丸様」と呼ばれていたことから、最近では研究者の先生の多くが茶々姫のものではないとされています。 現在「ふしみ殿」の正体は、一番長く伏見滞在し、本丸にいたと思われるお寧が推定されています。

  • 姫の肖像?

  • 養源院所蔵
    …軸に「浅井長政卿室之像歟、未詳、寛政十一巳未年八月僧正亮天修補之」と記載があります。 浅井長政室とはつまり市のことです。
    この像がいつ「茶々姫のもの」となったかははっきりしないのですが、茶々姫が持明院に納めた市の像とは似ても似つかぬ容姿であるから茶々姫のものとされたと聞いたことがあります。(とはいっても現代の感覚で美人ではないというだけ)
    そもそも肖像は経年のためにだいぶ劣化しており、現在この肖像そのものの美醜を容易に正確に推し量ることはできません。
    とはいっても、養源院は茶々姫が両親の供養のために建てたお寺ですから、市の像であっても何にも不思議ではないのですが…

  • 奈良県立美術館所蔵「伝 淀殿画像」
    …前者よりも保存状態が良いため、茶々姫の肖像となるとほとんど此方が使用されています。  なぜ「伝」かというと、この画像は江戸中期になってから、父浅井長政と母お市の方の肖像を参考に作られたとか。実際、着物に詳しい方いわく、この肖像に描かれた着物の誂えは後年のものらしいということです。
     福田千鶴先生の本にこの肖像に添えられた賛が掲載されているので以下に引用します。  同先生によると、観世音菩薩に救われる一切衆生を詠った新古今和歌集を一部変えて賛としているそうです(詳しくは福田先生の本をご覧下さい)。
      堂ゝ多野女志免し可(ただたのめ、しめじが)
      波羅能左しもく佐(はらのさしもくさ)
      我世の中耳(わがよのなかに)
      阿ら無か儀りハ(あらむかぎりは)

  • 結局のところ、確実な茶々姫の画像は伝わっていないといわざるをえません。
    ただ、万人に愛される市の画像(持明院蔵)が茶々姫の命で描かれたもので、 それが市の死後の制作であり、生前の茶々姫が若かりしころに描かれたものだということはあまり意識されていません。 姫の死後、姫の肖像画父母の肖像を参考に描かれたのならば、市の死後彼女を描いた絵師は誰を参考に市を描いたのでしょうか? (もちろん娘たちや縁の人たちのの細かいアドバイスや指示があったでしょうけれど)
    市の肖像に関しては2005年2月21日の読売新聞でこの件について触れられていたのですが… 今はオンラインの方が期限切れになってしまって残念。。 (アーカイブが残っていると教えていただきました。⇒こちら

  • 寂光院蔵建礼門院木像
    土橋治重氏の『平家物語』には次のような一文があります。
    「寺には建礼門院の木像や阿波内侍の張り子の像と伝えるものがあるが、木像は寺の本堂を修理した豊臣秀吉の未亡人北政所の姿であり、張り子の像のほうが建礼門院の姿である、と明らかにされている。」
    土橋氏が根拠とされた出典ははっきりしませんが、もしこれが本当ならば、寂光院の本堂を修築した秀吉夫人は寧ではなく茶々姫その人です。
    現在の建礼門院(平徳子)木像は平成十二年に焼失してしまったのですが、焼失した木像は江戸時代の制作だったとされています(淡交社『寂光院』)。寺伝によると、もともとは徳子の妹冷泉隆房室が徳子の死の翌年に寂光院に奉納されたものであったそうです(『寂光院の歴史と文化』)。土橋氏が実の建礼門院像と指摘されている阿波内侍の像も室町時代頃の制作とのことですので、建礼門院像は現代までに少なくとも二度作り直されていることが分かります。

    法体姿であるのは茶々姫自身が法体であったのか、もしくは法体のていで作らせたものかのどちらかでしょう。茶々姫は秀吉の死後も秀頼後見のために俗体のままであったといわれます。しかし落飾出家した寧とともに色の控えた衣装を身にまとっており、落飾していた可能性が伺えます。寿桂尼や洞松院尼など、出家後も後継ぎの後見をしていた例はいくつもありますので、茶々姫が俗体を通していたと断ずるのは早計なように思います。
  • ともかく、大原にひっそりとたたずむ寂光院は茶々姫が自らの名前で修築するなど、思い入れの深い寺院です。確かな面影を伝えるものが何一つない茶々姫ですが、焼失前の建礼門院木像はその唯一のものかもしれないわけです。写真が残っているようなので、ぜひ大々的に公開していただきたいです。
    お好みの花:
  • 茶々姫は大阪府豊中市の東光院の萩を殊の外愛したと伝えられています。
    毎秋この寺に萩を愛でに訪れ、萩を筆管として常に手元に置いたといいます。
    信心深かったことで有名な茶々姫ですが、この筆で法華経写経をしていたとか。
    (この筆「萩の筆」はこちらで求めることが出来るそうな) >>>東光院の公式サイト内のページへ

  • 都草
  • 野に咲く小さな花です。
    姫が好んだと伝えられる花はどれも慎ましやかで控えめな花ばかりなのが印象的です。