△ 北庄城址(柴田神社)
△ 北庄城石垣
北庄城石垣
柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北庄城(1575〜1583)天守閣跡と伝えられている場所です。
ここに展示している石は、勝家築城の北庄城の石垣遺構と考えられます。
発掘調査の結果からは、この石垣は本来、高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。
石垣は、ここより南でも同様に見つかっています。石垣の前面には堀が広がっていました。(解説掲示より)
北ノ庄城堀跡
発掘調査で確認された、福井城下層(1600年以前)東西方向の幅が25m以上ある南北にのびる堀跡です。堀の規模から、柴田勝家築城の北ノ庄城の堀と考えられます。露出展示している石列は堀南面の石垣です。(解説掲示より)
△ 九十九橋
九十九橋は、北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋です。九十九橋の記録は朝倉時代にもありますが、柴田勝家公が半石半木の橋としたと伝えられています。
江戸時代前期(貞享2年:1685)の「越前国地理指南」では「大橋 長八拾八間 幅三間 板橋四拾七間 石橋四拾一間」と記録されています。また、半石半木の珍しい橋として全国的にも知られていました。
九十九橋の架け替えは、江戸時代に十回以上行われ、明治7年(1874)に半石半木の橋として最後の架け替え工事が行われています。この半石半木の橋が、木造トラスの橋に架け替えられたのは明治42(1909)年のことです。
今回、勝家公の事蹟の一つとして、本公園にふさわしい半石半木の橋をイメージして、再生しました。欄干部分は往時から残されていた旧石材で、福井市浅水二日町に在住の吉田茂兵衛氏に保管されていたものを、寄贈されたものです。(解説石碑より)
△ 柴田神社摂社三姉妹神社
△ 柴田神社の柴田勝家・お市の方銅像
△ お市の方銅像
△ お市の水
戦国期にあった北之庄の井戸を城址にそのまま復元し「お市の水」と命名しました。お市の方が自ら三人の愛娘「茶々・お初・お江与」を育て後には幸福な越前三姉妹といわれたことにあやかり訪れる人が美しく幸せになるようにと願いを込めて作りました。
△ 三姉妹神社はお市の像に見守られる位置にあります。
△ 柴田勝家銅像
柴田勝家公は天正三年(1575)九月ここを居城と定め、一向一揆の争乱を治め、農機具を割与し、年貢米の制度を改正して民心を安定した。九頭竜川に舟橋をこしらえ、橡ノ水峠を開き、北陸道を改修して大いに土木事業を起し、都市計画は北の庄城の構築と城下町をつくり、半石半木の九十九橋を足羽川に架け、河南と河北をつなぐなど今日の福井市の礎を作った。ここに柴田神社氏子が中心となり像を建てることで、その遺徳を永く伝たえることになった。(解説碑文より)
△ 併設されている北の庄城址資料館
△ 北の庄城址資料館内にあるお市の方辞世の句が刻まれた石碑