# 女官/女房/侍女

右京大夫局

生年: 不詳
没年: 慶長二十(1615)年五月八日

名: 不明
称: 右京大夫局
戒名・院号: 華渓芳春禅定尼 …清涼寺過去帳



右京大夫局?宮内卿局?

秀頼の生涯で乳母として比定されているのは、高畠まつ(芳春院)の他に右京大夫局、宮内卿局、正栄尼、佐々内記母の四人がいます。 中でも右京大夫局と宮内卿局は木村重成という存在をはさんで混同されやすい存在です。
まず、この「右京大夫局」と「宮内卿局」が同一人物とされている件については、大坂の陣で秀頼に殉じた人々の名前の中にこの二人の名が並べられていることから否定できるかと思います。
  • 駿府記 …右京大夫(「秀頼御乳母」)、宮内卿(木村長門守〔重成〕母、秀頼御乳母)

  • 大坂御陣覚書 …宮内卿(「内藤信十郎〔長秋〕母」)、右京大夫(木村長門守〔重成〕母)

  • 豊内記 …右京大夫、宮内卿

  • 土屋知貞私記 …右京大夫、宮内卿(※常光院〔浄光院〕に従い生還の記事)


  • cf. 右京大夫、宮内卿がどちらかのみ登場する史料
  • 右京大夫… 薩摩旧記、細川家記

  • 宮内卿… 井伊年譜

  • 以上のように、右京大夫と宮内卿は別人だと断じてかまわないでしょう。


    右京大夫局

    秀頼の乳母という高い地位にあったにも関わらず、右京大夫の出自もまた分かっていません。 子どもの有無すら曖昧で、 「大坂御陣覚書」では木村重成の母、また結城権佐の母という説もあるようです(福田千鶴『淀殿』)が、子の名と共に記されるはずの多くの史料に子の名が記されていないことから、子どもがいなかったのかもしれません。
    また、先の宮内卿局と混同される要因は、二人とも木村重成の母に比されていることにあるのではないでしょうか。 木村重成は秀頼の乳兄弟である上に、落とされた首から香のかおりがしたという話が残るほど死の間際まで礼節を失わなかった貴公子として、また青柳と繰り広げた悲恋の仕手として人気のある武将です。 乳兄弟である重成の人気が乳母二人に結び付けられて今日の混乱が生まれたように思えます。

    ただこのように正体が曖昧な右京大夫ですが、前田利長隠居と同時引退したと思われるまつ(芳春院)を除くと、四人の乳母の中で筆頭といえるのがこの右京大夫局であったようです。
    「右京大夫」という候名から分かるように、彼女もまた女官の一人でありました。 「右京大夫」もまた「大蔵卿」と同じように中臈格の候名で、四位〜五位相当の女官であったことが推測されます(女官要解)。 ただ同僚である「宮内卿」もまた中臈ではあるのですが、 慶長3年4月18日の秀頼参内・元服の際に大蔵卿局と共に秀頼の乳母として同行したのがこの右京大夫局でした(お湯殿)。 このことから、乳母の中でも筆頭であっただろうことが推測されます。
    また秀頼の疱瘡が治癒した直後(慶長13年5月24日)、大神宮に大神楽奏し秀頼と茶々姫の息災を祈願した秀頼乳母某もまた、特に註記もないのは朝廷で乳母としてお披露目された右京大夫だからなのでしょう(当代記)。

    私としては、右京大夫は乳母の筆頭として名を馳せていたのに対して、やはり名が残っている宮内卿が息子の存在で高名になった部分があるのではと思うので、 右京大夫はもし息子がいたとしたら結城権佐派を取りたいところです。


    右京大夫局の教育方針

    秀頼の教育で、やれ甘やかしたやれ駄目にしたとあげつらわれるのをよく見ますが、 そんな俗説を否定する根拠となる存在がこの右京大夫局です。

    右京大夫局の数少ない事跡の中でおそらく最も有名なのが秀吉の手紙ではないでしょうか。
    かへすかへす、うきょうのたいふ(右京大夫)くせ事に候、 みなみな中なこん(中納言)さま気にちかい候もの候ハゝ、 こきころし候ほとたゝき候ハゝ、御きにちかい候もの候ましく候、 まんかゝはやばやきあいよく候、心やすく候へく候、 御かゝへも事つて申、かならすかならす参候てなりとも、 やまやま申たく候、めでたく、かしく、

    はやばやと状給候、御うれしく思ひ参らせ候、仍、きつ・かめ・やす・つし、 御きにちかい候よしうけ給候、さたのかきりにて候間、かゝさまに御申候て、 四人を一つなわにしはり候て、とゝさまのそなたへ御出候はん間、御おき候へく候、 我等参候て、ことことくたゝきころし可申候、御ゆるし候ましく候、かしく

      二十日       中なこんさま         大かう
                    お返事
    (大阪市役所文書『太閤書信』134)

    (意訳)
    返す返す右京大夫がけしからぬことですね。 何でも秀頼の気に染まないものがあったなら、死んでしまうほどに叩いて差し上げるので、 気に入らないものがあれば言って下さい。 まんかか(お寧)は早々と具合が良くなったので安心してくださいと お母さんへも言伝してください。 必ず秀頼の下へ参ってお話したいことがたくさんあります。

    早々にお手紙嬉しく思いました。きつ・かめ・やす・つしが 秀頼の気に染まないとのこと伺いました。 言ったとおりにするので、私が留守の間はお母さんに言って 四人を一つの縄で縛って、お父さまがおまえのところへ行くまでおいておきなさい。 私が参ってみんな叩き殺してあげるので、機嫌を直してください。

    慶長3年5月20日    中納言秀頼様へお返事申し上げます
                           太閤のお父さまより
    この手紙は大概晩年の秀吉が秀頼をどのくらい溺愛していたかの引き合いとして出されることが多いものです。 この中で、右京大夫はまだ五歳の頑是無い秀頼の気に染まない、決してご機嫌を取るばかりではない態度で接していたことが分かります。 幼い秀頼は厳しい乳母への愚痴を秀吉にあどけない字で報告したのではないでしょうか。
    この手紙から福田千鶴氏は、秀頼の乳母であっても茶々姫の勝手に処罰することは出来なかったという点を指摘されています。
    更に右京大夫は叩き殺されるどころか、その最期まで付き従い命を共にしていることから、このとき恐らく理不尽な仕打ちは受けなかったであろうと予想されます。 恐らく右京大夫はもとより茶々姫も、秀頼が書いた些細な日常に対しての秀吉の反応に驚いたのではないでしょうか。 そしてこのことからきつ・かめ・やす・つしの四人についても事の顛末が伝わらないのは、同じように理不尽な目にあうことはなかったからではないかと思われます。
    茶々姫自身、後年秀頼に文武に渡る教育に気を配っていますが、同時に実際の養育にあたる 右京大夫が秀頼のご機嫌取りに終始しない厳しい躾で臨むことを、茶々姫が賛同していたことがこの件から伺われるのです。


    略年表

  • 慶長3(1598)年

  • 4月18日、秀頼参内・元服に伴って大蔵卿局と共に参内。
    5月20日、秀頼が右京大夫への不興を秀吉に報告
    8月18日、秀吉病没。
  • 慶長13(1608)年

  • 2月末〜、秀頼、疱瘡に掛かり一時危篤に陥る。
    5月24日、大神宮で大神楽を奏すカ。
  • 慶長20年(1615)年

  • 5月8日早朝、秀頼・茶々姫に殉ずる。


    〔ひとりごと〕
    秀頼の乳母といえばもっと有名でもよさそうなものを、本当に史料の少なさに唖然です。

    でも例の秀吉の手紙や、参内記事、そして病気治癒の大神楽奏請…
    茶々姫と負けないくらい重い責任を担いながらも、晩年には家康を警戒させる存在に厳しく育て上げ、 時には寺社参拝で秀頼を心から案ずる様子が僅かな足跡からも見える右京さんはとっても魅力的だと思います。

    福田先生の挙げておられる「結城権佐母」というのがどの史料かまだ発見できていないので、 引き続き右京さんについても調査を続けたいと思います。


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