# 女官/女房/侍女
正栄尼
生年: 不詳
没年: 慶長二十(1615)年五月七日
名: 不詳
称: 正栄尼
父母: 不詳(浅井一族とも)
夫: 渡辺昌(宮内少輔、源誉道把居士〔清涼寺過去帳〕) …寛政重修諸家譜、登 …本朝武芸小伝
子:
糺(内蔵助。秀頼の槍術師範〔本朝武芸小伝〕。正栄尼が介錯した。近江〔続武家閑談〕へ逃れたという説がある)
永誉寿慶大姉(慶長十六年六月没) …清涼寺過去帳
孫:
守(権兵衛。大坂落城時、乳母に助けられ、南禅寺の僧侶となる。後に還俗して徳川綱重に仕える〔続武家閑談、寛政重修諸家譜〕)
量寿栄薫信尼 …清涼寺過去帳
雲龍童子 …清涼寺過去帳
戒名:
往相院西誉正栄大姉 …清涼寺過去帳
往想院西誉正栄 …諸寺過去帳
略年表
元和元(1615)年
五月七日、糺を介錯し自害する。
某日、清涼寺にて葬式が営まれる(清涼史略)。
元和三(1618)年
五月七日、三回忌法要が栖霞寺で営まれる(清涼史略)。
元和七(1622)年
三月十九日、五月七日、七回忌法要が清涼寺で営まれる(清涼史略)
天正十一(1583)年
北庄落城。茶々姫たちは羽柴秀吉の庇護に入る。
天正十七(1589)年
茶々姫、淀城にて秀吉の子棄丸(鶴松)を産む。
天正十九(1591)年
八月五日、鶴松が淀城で病死(享年3歳)。
文禄二(1593)年
八月三日、茶々姫、大坂城二の丸で拾丸(後の秀頼)を産む。
慶長三(1598)年
三月十五日、醍醐の花見。
八月十八日、豊臣秀吉没。
慶長五(1600)年
九月十四日、母海津尼とともに茶々姫の使者として大津城講和を実現させ、松の丸殿を救出する。
慶長19(1614)年
八月、方広寺の鐘銘問題に際し、大蔵卿局らとともに駿府へ下向する。
十二月、大坂冬の陣の講和の際、徳川家康のもとに再度の血判を求めに常高院や二位局とともに使者に立つ。
慶長20(1615)年
五月、大坂夏の陣がおこる。
八日、大坂城山里曲輪糒櫓(異説あり)にて茶々姫に殉じて自害する。
〔ひとりごと〕
饗庭局もまた、大蔵卿局とは違った意味で茶々姫にすべてをささげた人だった…と思います。
浅井の家に生まれた分、大蔵卿局より複雑に茶々姫の存在が関わっていました。
彼女については大蔵卿局以上に史料が少ないので、この記事も多分に私の推測が入っていることをご承知おきください。
どこかで彼女の存在に目をとめてくださる方が増えて、それこそ“本当”の饗庭局の姿が少しでも明らかになりますように。
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