# 近江浅井氏

浅井万福丸

長浜市役所浅井支所前万福丸像(浅井長政一家像より) ▽

生年: 永禄九(1566)年
没年: 天正元(1573)年十月十七日、(異説)天正元年八月二十七日(古代氏族系譜集成)

諱: 輝政? …『浅井系統一覧』 戒名・院号:

  • 周芳禅士 …諸寺過去帳、江州浅井家之霊簿
  • 羽林院骨(?)香義道 …浅井家譜
  • 自性院 …諸家系図纂。市との混同か。
  • 肖像:

  • 大徳寺大慈院蔵童子像?
  • 「大徳寺の大慈院には賛がないため像主不詳の、まだ前髪を下していない童子像がある。子持ち三亀甲文を置いた透ける旧式の肩衣をつけているが、袴と色が異なる継裃姿である。小袖は華やかな籠目模様で右手に扇を持ち、刀を腰に差して胡坐を描いている。戦国、桃山期の武将で子持ち三亀甲文を用いたものと言えば浅井氏である。(中略)もし、この童子が浅井氏ゆかりの子供ならば万福丸がふさわしい。二十三回忌あたりに描かれたとするならば、文禄末、慶長初年ごろの作となろう。ただ、大慈院と浅井氏との関係が分からない。浅井氏の菩提寺は曹洞宗の徳勝寺であるが、久政、長政の画像は臨済僧が著賛している。強いて大徳寺と浅井家の関係を求めてみるならば、元和八年(一六二二)に玉室宗珀を開祖として大源庵を建立した横井正栄尼がいる。横井氏は浅井家の出身であったという。塔頭の廃滅にともなって什物が移動するのはごく普通のことであるが、大源庵が北派に属しているのに対して、大慈院が南派である点に問題が残る。」(出典:宮島新一『肖像画の視点 源頼朝像から浮世絵まで』吉川弘文館、1996年)

    父: 浅井長政
    母:

  • 某女
  • …主に市が永禄十一年春に嫁いだとされる場合
  • 小谷の方(市)
  • …おもに市が永禄四年ごろ嫁いだとされる場合(諸家譜)
  • 平井定武女 …浅井氏家譜大成、古代氏族系譜集成より。但、信憑性には疑問が少なくありません
  • 乳人:木村喜内之介(貞之) …もとは浅井家の小姓。小谷落城の際、万福丸を守って共に落ち延びた(『浅井三代記』)



    出自

    浅井長政の長男。
    生母についてはいろいろと説がありますが、嫡男としての扱いを受けていたことは間違いないようです。
    幼いころは小谷で過ごしていたという説のほかに、朝倉家に人質に出されていたという説(当代記)も。

    小谷城脱出

    小谷城攻防戦に際し、万福丸は落城を前に乳人木村喜内之介ら(おそらく乳母も)と共に城を落ち延びさせられています。 これは父長政の意向であったとも、敵方の陣頭指揮を執っていた羽柴秀吉の案であったともいわれます。
    余呉湖(滋賀県伊香郡余呉町)もしくは越前駿河地方(『浅井三代記』)にしばらく身を隠していました。
    しかし万福丸は長政の嫡男であったため、命を絶たれるのが当時の一般的な処遇でした。 よって織田信長は万福丸の行方を探しだし、処刑することを命じます。

    万福丸の居場所が信長に知れてしまったいきさつにもさまざまな説があり、
  • 万福丸の処遇について祖母である土田御前(「祖母公信長ノ御袋」)を頼ったことでその居場所が知れた (この場合、万福丸が市の子であり、またお市も土田御前の娘であるということが前提になっているようです)
  • 「万福丸の命を助ける」という偽りの約束と引き換えで、信長が市から情報を引き出した
  • 羽柴秀吉が万福丸の居所を把握していることを知っていた信長が秀吉に万福丸の処刑を命じた
  • などが挙げられます。

    最期

    間もなくその居所を暴かれた万福丸は、信長の命を受けた羽柴秀吉によって刑死させられました。 最期の場所は、小谷からほど近い近江木之本(滋賀県伊香郡木之本町 /『当代記』、『浅井三代記』)の駅であったという説、 また祖母小野の方(阿古)が同じく刑死した美濃の関ヶ原(『信長記』)であったという説があります。 まだ数えで十歳ほどであった万福丸は、その幼い身を市中に引き回されたのち、串刺の刑に処されました。 織田方の史料では、このとき万福丸は何かを泣き叫んでいたと記録されていますが、彼が最期に口にしていたのが幼い恐怖であったのか、織田方に対する勇敢な罵倒であったのかは定かではありません。 以上のように、万福丸の生涯は短いにもかかわらず幾つもの説が入り乱れはっきりしません。 万福丸の人となりすら、老成した少年であったり、未熟な少年であったりと様々に言われています。 ただ、万福丸が長政の嫡男として生きたことは確かで、後年妹である茶々姫によって祖父母・父母と共に手厚く供養されています。


    略年表

    (製作中)

  • 永禄九(1566)年

  • 万福丸、浅井長政の子として生を受ける
  • 元亀四・天正元(1573)年

  • 九月一日、浅井長政が自害し、小谷城が落ちる
    十月十七日、近江木之本もしくは美濃関ヶ原で万福丸刑死する
  • 天正十七(1589)年

  • 十二月、茶々姫、高野山にて祖父久政・父長政・兄万福丸の供養を行う


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