# 近江浅井氏
海津局
生年: 不詳
没年: 明暦元(1655)年十二月二十日
称: 海津局
院号: 光源院正誉妙悟 …『東浅井郡志』、『地方別日本の名族―八 近畿編』
木像:医光寺?(伝崇源院木像)
父: 浅井明政
母: 浅井鶴千代
同母妹: 饗庭局
夫: 浅井政高(通称は茂左衛門/明政の甥。生田姓→田屋姓→浅井姓)
子女(新人物往来社『地方別 日本の名族 八』小和田哲男「浅井氏」系図参照):
道高(左馬介/旗本となった後、御台所である督を憚り三好直政と改める)
里見興元妻
たつ子(紀伊介賢政妻)
林外記妻
茶々姫の侍女
夫である生田政高は秀吉・秀頼に臣従し、大坂の陣(夏)にて戦死したといいます。
茶々姫が豊臣家で力を持ち出したころ、浅井家親族など縁者の供養に力を注ぎますが、
同じころ散り散りになっていた浅井の縁者を呼び集めたのではないでしょうか。
海津局も夫と同じころに茶々姫の元へやってきたと考えられます。
茶々姫が千の無事を願った生き証人
先述のとおり、夫政高は大坂の陣で戦死してしまいますが、海津局は秀頼夫人千を守って城外へ脱出しています。
これは、浅井家の中でも尊敬を集めていた蔵屋夫人の血を引く女性として、
浅井の総領姫という立場が茶々姫から督に託された象徴ではないでしょうか。
とかく千との関係について耳障りの悪い噂を囁かれがちな茶々姫ですが、
その側近であり、何よりも大事に思っていた一族でもある海津局が千を守って城外に逃れたことに当時の茶々姫の千姫に対する態度が偲ばれます。(南部家譜、寛政重修諸家譜)
千を通じて督(江)へ
その後、千に従って江戸に下った海津局は、その地で督の侍女となりました。
彼女の子女はそれぞれ旗本になるなど、浅井の血は確かに守られ今日に続きます。
略年表
明暦元(1655)年
十二月二十日、病没。光源院と謚される(諸系図)
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