# 近江浅井氏

浅井久政

▽ 徳勝寺浅井久政墓(長浜市平方町)

生年: 大永六(1526)年
没年: 元亀四/天正元(1573)年八月二十九日 …古代氏族系譜集成

通称(字): 新九郎(古代氏族系譜集成)
受領名: 左兵衛尉、宮内少輔(古代氏族系譜集成)、下野守(古代氏族系譜集成)

戒名・院号:

  • 久岳良春
  • 肖像:

  • 持明院蔵浅井久政寿像

  • …「寿像」とは生前に描かれた肖像画のことです。長身で英明そうな様子が見て取れます。 描かれた紋は、久政個人の紋だとか。 また、この寿像が収められている現在の持明院こと高野山小坂坊は、浅井家の菩提寺だったそうです。

    墓所: 徳勝寺(滋賀県長浜市)



    ▽ 浅井久政寄進弁才天像(竹生島宝厳寺)

    (定説)
    父:浅井亮政
    母:尼子馨庵

    (異説)
    実父:六角義久 …「六角佐々木氏系図略」
    実母:北向殿 浅井千代鶴女(/亮政「姊」) …「浅井過去帳」、「浅井物語」
    養父:浅井亮政

    妻:

  • 井口阿古(小野殿) …中原系図、諸家系図纂、島記録など
    …阿古を久政の第一夫人ではなかったという見解を持っていらっしゃる方もいます(小和田哲男氏など)。おそらく、「京極高秀女」(下記)の存在を鑑みてのことでしょう。 しかし、久政の施策における存在感の大きさから、阿古は妻であったと考えて間違いないというのが私の考えです。
  • 阿久姫生母
    …亮政の侍女で、妻となれる身分ではなかったとも。そのため阿久は亮政の養女となったのでしょうか(寺伝では阿久は「亮政女」と残る)。 この女性はその後阿久姫と共に、当時「実西庵」、「実才庵」と呼ばれていた平塚屋敷こと後の実宰院に入ったそうです。
  • 岡崎安休生母
    …浅井一族であったとも。 阿古御料の輿入れに際して、彼女は息子と共に浅井家を出てかねてより帰依していた本願寺に赴いたそうです。 その際、尼子氏の助力があったとも。後に本願寺を継いだ顕如の乳母となったといいます。
  • 京極高秀女? …佐々木系図、寛永諸家系図伝
  • 息子:

  • 富樫綱政(安休)<後に岡崎姓>
  • 長政
  • 政元 …古代氏族系譜集成
  • 政之
  • 政利(新三郎、仁右衛門)? …名古屋市史浅井系図
  • 大文字屋新十郎?
  • 息女:

  • 阿久(昌庵見久尼)
  • 近江の方? …実際は亮政女か
  • 泉源寺殿
  • 大弐尼(六角義久女房)
    …実宰院蔵の浅井氏系図に久政の「三女 大屋形(六角)義実朝臣女房大弐尼」として記録されています。
  • 松林院殿
  • 斎藤龍興妻?

  • 略歴

    家督相続後、久政は旧来の対立勢力である南近江の六角氏の傘下に入りました。 これにより国内の安定を得た上で、国内における浅井家の権力を盤石にするために力を尽くします。 高時川の下流に位置する小谷城の麓に、上流の村より有利な水利を国内の争いなく得るなど、 その確実な施策の成果が昨今注目されています。

    従来の見解によれば、このような成果にも関わらず亮政以来の家臣は六角に対して消極的な久政に不満を抱く者も多くあったとか。 嫡子長政の成長を待ってクーデターが決行され、久政は無理やり家督を長政に譲らされたといいます。
    このとき、身の危険を感じて久政は竹生島に逃れ、阿古夫人の助力で小谷城へ帰還を果たしたとも。 ともかく、その後小谷城小丸を拠点としたのは確かなようです。

    このような顛末にも関わらず、阿古の助力もあったのか長政は父を粗略にせず、隠居後も影響力を振るい、 浅井家が朝倉家との同盟を重視する方針に大きく影響したといいます。 それに対して、織田家へは良い感情を持っていなかったといいます。
    織田軍の小谷城攻めで、息子長政に先立ち、八月二十九日に京極丸で自害しました。 このとき、久政が可愛がっていた舞の達人鶴松太夫というものの介錯を受けました。


    略年表

    …工事中…


    前画面に戻る