# 豊臣氏
露月院殿誓槿大童女
生年: 天正16(1588)年?
没年: 文禄4(1595)年8月2日
名: 不詳
(wikipediaに「槿(むくげ)」という説が書かれていますが出典は不明です。法名から来ているのでしょうか?)
法名:
露月院殿誓槿大童女 …瑞泉寺寺伝
妙亀童女(没日:「七月十三日」) …東西歴覧記
墓所:
父: 豊臣秀次
母: 中納言局(亀/小浜殿。摂津国小浜御坊〔毫摂寺〕善助の女 …没年29歳)
未来の妻は5歳、未来の夫は当歳
一 木下半介(吉隆)方より申越、御ひろい様と姫君様御ひとつになさせられ候ハん由、被仰出由関白様被成還御次第、」其通羽筑州(前田利家)夫婦ヲ以可被仰出由也 (『駒井日記』)
文禄2(1593)年10月1日、拾丸が生まれて2ヶ月余り。
秀吉が木下吉隆を通じて姫と拾丸の縁談を伝えたのは、まだそんな時分でした。
「七つまでは神のうち」といわれ、まだ無事育つかも分からない拾丸と可愛い盛りの姫との縁談に、秀次は当然不快感を示します。しかし前田利家と松夫妻の仲介で秀次はこれを了承しました。
当時大坂城二の丸に居た茶々姫も、姫の様子に心を配り、息災であることを聞くにつけ喜んでいます。
理不尽な結末
しかし秀次と秀吉の関係は悪化し、秀次は高野山に追放の上切腹させられてしまいます。
秀頼の妻たちによるも功を奏さず、七歳(九歳?)になっていた姫は母の中納言局(29〜34歳)、
そして総勢三十余人に及ぶ秀次の妻子や女房たちと共に三条河原で処刑されました。
妹たちの中には生存した者(菊、隆清院、梅小路家妻室)もいました。
しかし、姫は7歳になっており自我も芽生え、更に「拾丸の許婚」という立場が返って警戒されたのかもしれません。
まだ幼い拾丸はともかく、未来の娘の成長を楽しみに暖かく見守っていた茶々姫にとって余りにも衝撃的な事件だったことでしょう。
略年表
天正16(1588)年?
秀次を父に、中納言局亀御前を母に誕生か。
天正18(1590)年ごろ
秀次が尾張加増に伴って清洲城を支配におく。
文禄2(1593)年
8月3日、大坂城二の丸にて茶々姫を母に秀吉の子拾丸(後の豊臣秀頼)が生まれる。
10月、拾丸の許婚となる。
文禄4(1595)年
7月15日、秀吉に高野山へ追放された父秀次が青巌寺柳の間で切腹。
文禄4(1595)年
8月2日、三条河原で母と共に処刑される。
〔ひとりごと〕
秀頼の誕生で自分の立場の危うさを知った秀次にとって、
初めは娘にとって可哀想なばかりの縁談も、自分が何とか豊臣の系譜に生き残るための手段でした。
しかし父の命はたった5つの幼女の背には勝ちすぎるほどの重荷でした。
そもそも背負わせること自体不憫なのですから。
身内にとことん甘い茶々姫が、産後すぐにもかかわらず息子の許婚と決まった未来の娘の身を案じ、
まめに姫の様子を尋ねては息災の知らせを聞いて安心している様子に、姫が既に茶々姫にとって身内同然だったのだなあと思わされます。
そしてその様子は、茶々姫が三条河原の処刑に際して、お伊万の方のようにこの姫の助命にもきっと奔走していただろうことを簡単に私に想像させるのです。
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