# 豊臣氏

豊臣国松

生年: 慶長十三(1608)年
没年: 慶長二十(1615)年五月二十三日 (於 京都六条河原) …東西歴覧記
※但し、「大坂御陣覚書」は三条河原、「大坂御陣山口休庵咄」は七条河原と記す。

幼名: 国松丸(大坂御陣覚書、聞書雑和集、落穂雑談一言集)、国松(清涼寺過去帳、諸寺過去帳、武功雑記、慶長見聞書、村越道半覚書、元寛日記、武辺雑談、日次記事)
諱: 秀勝(大坂御陣覚書、武辺雑談)
法名:

  • 漏世院殿雲山智西大童子 …誓願寺過去帳、三宝寺供養塔
  • 漏世院雲山智清 …諸寺過去帳(高野山過去帳)
  • 漏世院雲山智清大童子 …清涼寺過去帳
  • 満舩院殿雲山知清大童子 …常高寺過去帳
  • 向陽院梅蕚童子 …東西歴覧記(善正寺過去帳)
  • 向陽院梅蕚 …日次記事
  • 位牌: 誓願寺竹林院(現存するかどうか不明)
    墓所: 京都誓願寺(龍〔松の丸殿〕によって供養)→太閤坦(旧京都豊国社境内)、京都三宝寺(氏家古奈による秀頼・国松・茶々姫の供養塔)

    父: 豊臣秀頼
    母:

  • 石(「家女於石成田五兵衛親躬女」) …系図纂要
  • 成田五兵衛助直女 …台徳院殿御実紀
  • 成田五兵衛助近女 …難波戦記、新東鑑、徳川太平記元寛日記
  • 渡辺五兵衛助近女 …塩尻、元和大坂役将士自筆軍功文書
  • 「伊勢より御奉公ニ出られ候女中」 …大坂御陣山口休庵咄
  • よね(成田弥太郎和重女:千姫真実伝/伊勢局、天正十九年生:千姫譜〔※創作に近いと評されている〕)
  • 「楽人」 …リチャード・コックス日記

  • 乳母:
  • 「ときや弥左衛門」(「砥石屋弥左衛門」)の姉妹(後家だった)。…大坂陣山口休庵咄(「国松様御生害に事とき若狭はなし」)
  • 「塩尻」、「元寛日記」では、自身を真野豊後守家人坂部(元「坂邊」)彦助の後家と名乗り、国松を自分の実子として逃がそうとしている。 (また、「元寛日記」では、国松を連れて大坂城を出た後、材木屋太郎兵衛という者の妻となり、国松を夫妻の養子としたと記されている。)
  • 養父:「ときや弥左衛門」 …大坂陣山口休庵咄
    傅役:田中六左衛門(京極家家臣)「御守」…大坂陣山口休庵咄


    国松丸の風貌

    『駿府記』には捕らわれた国松の容姿について、「容皃美麗」と記録しています。

    国松丸の捕縛

    捕縛された場所、状況については様々な説があり、当時それだけ情報が錯綜していたということでしょう。まずもって、妹姫が捕らわれた時点で国松丸の存在について幕府は疑いつつ確かな情報を持っていなかったようです(駿府記)。
    捕縛された場所について、『駿府記』、『武辺雑談』では伏見の農人橋、『松山叢談』では伏見の京橋、『本光国師日記』『山本日記』、『落穂雑談一言集』では伏見、『大坂陣山口休庵咄』では枚方で捕らえられたのちに伏見へ連行される、『村越道半覚書』では奈良と様々です。伏見にいたことは確かでしょうが、そこで捕らわれたのか、どこかでとらわれて伏見に連行されたのかはわかりません。

    国松丸の乳母

    国松丸の乳母の活躍が以外に多く描かれており、国松丸の正体について聞かれた時には「自分が真野豊後守の家人である坂部(坂邊)彦助というものの間に産んだ実の子だ」と主張して国松丸を助けようとしています。(元寛日記、塩尻)真野豊後守といえば真野頼包のことで、木村重成妻青柳の父にあたる人です。この乳母は、真野家を通じて大蔵卿局の縁故で国松の乳母に選ばれたのかもしれません。
    そして『武辺雑談』では、国松を辱める井伊直政に向かって、「井伊掃部という方は人間の作法も御存じないらしい。このお子さまは天下人秀吉公の御孫様、世が世なら貴方様はこの若君の盃を頂きたくても頂けないでしょうに」と直政を辱め、その非道を責めるエピソードが描かれています。
    なお、この乳母は助命されたようです。

    国松丸の最期

    有名な説に、国松丸が自分のことを「上様」もしくは「若君様」と言ったために正体がばれた、というのがありますが、その出典は「上様」が『元寛日記』、「若君様」が『武辺雑談』です。しかし、『元寛日記』は乳母が国松の正体を隠していたため、養父(乳母が再婚した相手)である材木屋太郎兵衛という人物が最後まで国松の正体に思いもよらなかったことは国松が自分を「上様」と言っていたことと矛盾します。『武辺雑談』にしても、様々な勇猛果敢な逸話の残る乳母が身を隠している状態の国松が「若君様」といって近所の子供たちと遊ぶのを止めないのはとても不自然です。
    一方、『日本西教史』には、国松丸が死に臨み、家康の背信を責め、祖父(秀吉)に立てた誓いを悉く破ったことを責めた、という逸話を、『パゼー日本耶蘇教史』にも家康(「内府様」)の秀吉(「太閤様」)や秀頼に対する背信の罪を責め、勇ましく頭を差し伸べて斬首された、という散り際を伝え聞いています。
    どちらも聞き語りですので、無条件に真実ことは難しいですが、双方の噂が今日までに存在したことが分かります。
    そして、土御門泰重が国松の処刑を聞いて哀傷し、処刑に立ち会った人々が国松の死を悲しんだ(舜旧記)ことは確かです。

    国松丸の生存説

    「駿國雑志」には、華陽院の了的上人が家康・秀忠に願い、八歳の国松を救い弟子とする説が記されています。六条河原では六郎左衛門(傅役の田中六左衛門と同一人物だろう)を誅し、乳母とともに助命され、乳母も尼となったとあります。


    略年表

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    〔ひとりごと〕
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