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# 史料

天正十九(1591)年

※ []内は茶々姫の居場所
この年
京都誓願寺、松の丸殿の発願により一条小川から三条寺町へ移転し、再建が始まる。前田玄以夫人村井貞勝女(「民部法印御簾中」)、前田利家夫人松(「羽柴筑前守御簾中」)来迎柱を寄進する。慈光院村井貞勝女(佐々成政夫人)、加賀殿(前田利家女摩阿姫)諸大名夫人も柱一本を寄進し、督(江/「岐阜宰相御簾中」)もまた柱一本を勧進する。「御茶様」が茶々姫、「大津様御局」が初とされる書籍もあるが、別人(鶴松歳暮となった茶々姫がこの時期「御茶様」と呼ばれている史料は無く、寄進の順序から鑑みても茶々姫とは断じることはできない。また、初の夫京極高次はこの頃まだ大津城主ではない)。 誓願寺勧進帳

正月[聚楽第]
十四日(晴、寒) 秀吉(「殿下」)と鶴松(「若公」)、聚楽第(「聚楽殿」)において親王・摂家・清華家・門跡衆・諸大夫諸礼を受ける。 時慶記
十九日(晴) 鶴松(「若公」)煩いのため秀吉(「殿下」)尾張へ鷹狩の予定を延期する。 時慶記
二十六日(晴) 鶴松(「若公」)煩い続く。 時慶記
二十七日 鶴松(「若君さま」)の病状や薬師について、上下京の人々が「知音」(知恩院か)にて寄合を持つ。 北野社家日記
二十九日 秀吉(「関白殿」)、鶴松(「若君様」)の病気(「口中御煩」)平癒祈祷のため、北野社・賀茂社・祇園社・清水稲荷社などの諸社へ三百石ずつ寄進する。
この三百石について、松梅院との間で起こった揉め事は寧(「北ノ政所さま」)の仲裁で一応の解決を見ている(閏正月三日条)。
北野社家日記
閏正月[聚楽第]
十日(雨) 秀吉(「関白殿」)、延引していた鷹狩に孝蔵主を伴って出発(鶴松の容態安定か)。 時慶記
四月[聚楽第]
五日 小吉秀勝、この日より以前に母(のちの瑞龍院)の願いにより甲斐府中城より美濃岐阜城へ移る。 『浅井三姉妹の真実』
六月[聚楽第]
二十七日 大野佐渡守(佐渡守/「大佐玄三」)、鶴松(「若君様」)のために祈祷を依頼する。 『張州雑誌』
七月[聚楽第→大坂城→淀城]
九日(晴) 秀吉養女小姫(織田信雄女)夜四時に他界。午後に少し地震、晩に少し雷鳴。 駒井日記
十七日(晴) 秀吉(「殿下」)・鶴松(「若公」)大坂へ下向今日は淀城に宿泊。 時慶記
二十八日 寧(「北ノ政所 関白殿ノ女中也」)の「腹煩」平癒祈祷が行われる。 多聞院日記
二十八日 秀吉(「関白」)、寧(「北ノ政所」)の「腹煩」平癒祈祷のために近江芦浦観音寺(「江州アシニラノ観音寺」)の医者を手配し、また祈祷を命じる。 多聞院日記
八月[淀城→大坂城二の丸]
三日(晴) 秀吉(「関白様」)、鶴松の病平癒祈祷のために北野社・春日社へ増田長盛(「ました右衛門尉殿」)を遣わし立願する。(『東浅井郡志』曰く、春日社に茶々姫の名を記した石垣があるという) 北野社家日記・鹿島神社文書(『東浅井郡志』)
孝蔵主、淀城へ鶴松(「若公」)見舞いに赴く。 時慶記
四日 鶴松(「若君」)の煩いについて、増田長盛(「増田」)ら五名の連判で秀吉(「関白殿」)より興福寺に重ねて祈祷の依頼が届く。 多聞院日記
五日(暁雨、午後晴) この日淀城において、鶴松(北野「若君様」/時慶「殿下ノ若公」/駒井「若公様」/多聞院「若君」/鹿苑「若公」)病で他界する。(この頃小姫が亡くなり、北政所も病床にあることから、この三名は同じ伝染病にかかっていたのではとされる。)
秀吉(北野「関白様」/時慶「関白殿」/鹿苑「殿下」)は淀城にて最期を看取った後に髻を落とし、東福寺常楽院へ移り二夜三日籠る。諸大名もまた秀吉に習って髻を落とす。
なお、鶴松の葬儀は妙心寺にて執り行われることが伝えられる(北野)
時慶記、駒井中書日次記(文禄三年三月八日条)、鹿苑日録、多聞院日記(同月六日・八日条)
七日(晴) 秀吉(「殿下」)、東福寺から清水寺へ移る。 時慶記(同月八日条)
九日 秀吉、清水寺より直接有馬へ湯治へ赴く(時)。 この日付けの増田右衛門尉長盛の書状が残る。鶴松の他界について記され、その後秀吉が東福寺・清水寺へ篭り、家督を秀次(「聚楽中納言様」)へ譲り大坂で隠居する意志を示した旨を記す。 時慶記・駒井中書日次記(文禄三年三月八日条)
十一日 鶴松(「若公」)の供養のために、妙心寺(「妙眞寺」)において経が読まれる。鶴松の院号が「祥雲院玉巖惠麟台霊」と定められ、南禅寺・天龍寺・建仁寺・東福寺(「東」)に送られ経が読まれる。 鹿苑日録
十五日(雨) 時慶、妙心寺へ鶴松(「若公」)の弔いに寿量品を送る。 時慶記
十八日(晴) 秀吉(「殿下」)、有馬より大坂に帰る。 時慶記
九月[大坂城二の丸]
この月 加藤清正、大坂城にて秀吉(「秀吉公」)に謁見し、鶴松(「若君 八幡殿」)の逝去を惜しむ。秀吉の悲しみがあまりに深かったので、直前後の見舞を控えたものだという。 清正行状奇
十月[大坂城二の丸]
十九日 徳川秀忠、東福寺南明院の庫司その他諸宇を建立し、乾谷五十石の朱印状を発給する。 塔頭記、慧日規箴(東福寺誌)


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