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# 百景

興福山徳勝寺


△ 徳勝寺(長浜市平方町)


△ 徳勝寺内浅井三代墓。向かって左より長政、亮政、久政の墓。手前左側が亮政夫人蔵屋の墓。手前右側は字が判読しづらかったが、浅井徳翁の墓が確認できたので、一族の墓が控えて並んでいると思われる。


概略

浅井氏の菩提寺。
もともと「医王寺」と号し、上山田(旧湖北町上山田)にあった(※異説あり)ものを、小谷城築城に併せて永正十五(1518)年、浅井亮政によって小谷城清水谷に移され「徳昌寺」と号した。
文禄四(1595)年、秀吉によって小谷城下から長浜城内に移され、亮政の法号に因んで「徳勝寺」と改称した。(文禄四年といえば、秀頼が誕生したのが文禄二年のことである。茶々姫は秀頼を産んだのち、翌文禄三年に養源院を築いたことに代表されるように、両親や一族の供養に心を砕いている。徳勝寺の長浜城内移転に際しても茶々姫の関与があったのではないだろうか。)
寛文十二(1672)年、彦根藩主井伊直孝により現在の地に移され今日に至る。

八世源秀和尚が秀吉の養子於次丸秀勝(織田信長四男)の学問の師であり、秀勝から寺領を寄進されている。

所縁の文化財

  • 小谷城址保存会蔵浅井長政像 …旧徳勝寺伝来。徳勝寺源秀が一周忌の本尊として描かせ天正二〔1574〕年八月に著賛。
  • 浅井三代像 …浅井新兵衛善政寄進(文政八〔1825〕年)
  • 浅井亮政夫妻像 …東福門院対馬(浅井一政妹)が作らせた(17世紀後半)
  • 浅井亮政肖像画 …天文十三(1544)年四月六日大祥忌法要本尊として描かれた像。賛は建仁寺梅屋上人。現存しない。
  • 徳勝寺文書 …浅井一族の記録多数
  • 江北徳勝禅寺仏殿記
  • 浅井記証本
  • 徳勝寺由緒之覚(江戸時代後期)…秀吉・秀吉夫人・秀勝・浅井三代・崇源院の位牌を守護していたことがかかれている。
    この秀吉夫人については、単純に考えてお寧のことかと思われますが、お初、お江の名があるにもかかわらず茶々姫の名が無いことが気になります。江戸時代のことなので、幕府をはばかって茶々姫を省いたのか、もしくはこの秀吉夫人が茶々姫のことを指すかどちらかだと思うのですが…
    また、ここに出てくる「秀勝」は秀吉の実子とも伝わる「石松丸秀勝」を指します。秀勝と言えば、於次丸秀勝も徳勝寺とゆかりが深いのですが(上記概略参照)、徳勝寺の位牌には「本光院朝覚居士」と刻まれています。妙法寺伝来の石松丸肖像に記されている法号「本光院朝覚居士」であることからこの秀勝が石松丸を指すことが分かります。

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