# 書状・書簡

≫ 茶々姫の和歌

慶長三年三月十五日 醍醐の花見にて(『醍醐花見短冊』)

はなもまた君のためにとさきいでて 世にならびなき春にあふらし
 …桜の花もあなたがいらっしゃるからとこんなにすばらしく咲き始めて、私も世に並ぶことのないすばらしい春を味わうことができることでしょう
あひおひの松も桜も八千代へん 君がみゆきのけふをはじめに
 …あなたがここにいらっしゃった今日から、松はいつまでもりっぱに経ち続け、桜もいつまでも美しく咲き誇ることでしょう
ともなひて眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき花の面影
 …あなたとご一緒に、帰るのが惜しいと思わせる程満開の桜をこの先のことと重ね、思いにふけりながら眺めあかしています
〔解説〕
この和歌に登場する「君」は一見秀吉のことのように思いますが、おそらく秀頼のことではないかと思います。
最初の二首は、桜に豊臣家(秀頼)を模してその栄華を詠った、茶々姫の和歌。
私見ですが、最後の一種はどこと無くこの先の不安を表しているような気がします…。
〔独り言〕
慶長三(1598)年の春、醍醐の花見の席で詠まれた和歌です。 国文学の先生によると秀歌だそうです。我がことのようによろこんでしまいました♪
茶々姫は連歌会を開いたりもされているようで、和歌の教養は研鑽を積まれていたようです。 当時武家の女性でも和歌は教養の一つとして身に着けていなければならないことでしたが、 特に関白家としての顔も持つ豊臣家において、和歌は公家の公的な交流手段として必須の教養でした。
他の手跡と比較され、桑田忠親先生は代筆であろうと言われていますが私には判じかねます…

醍醐の花見について
慶長三年三月十五日、醍醐寺にて開かれた桜の宴。
秀吉の妻たちをはじめ、高位の家臣や侍女など、ごく身内しか参加できませんでした。

『陳善録』にはこの花見において茶々姫と松の丸殿に「盃争い」があり、お寧とお松(前田利家室・芳春院)がったと記載されているが、
  • 利家の御伽衆である村井長明がこの花見に参加した可能性は低い(福田千鶴先生の指摘)
  • お寧・茶々姫・龍子の順はこの花見に限ったことではなく、他の史料に散見され、順位の揺らぎは見られない(同上)
  • 秀吉没後の龍子と秀頼・茶々姫の関係を見て、茶々姫が孤児になったときに後見を買って出て以来の関係が悪化したとは考えにくい。
  • そもそも著者の村井長明(重頼)はお松の方(芳春院)の江戸下向に従った信頼厚い家老村井長頼の子で、この件に利害関係がないとはいえない。 (※「太閤の妻同士の争いを鎮めた」というのは大名の奥方にとって立派な武勇伝)

  • 以上からこの件が事実であると断じることは難しいと考えます。


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