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≫ 茶々姫書状

慶長十一〜十四年某月二十七日 京極高次宛『淀殿自筆書状』(知善院所蔵)

《読み下し》
たひ/\秀頼わか身かたへ御たよりとも給候て御うれしさ、 いく千とせまてもといわひ入まいらせ候、 わかさへの御返事もまいらせ候まゝ、御とゝけ候て給候へく候、 わさといわひまいらせ候て、金子五枚まいらせ候、めてたくいく久しく申うけ給候へくそうろう、 めてたく、又かしこ、
ひとひハ御さうさに御くたり候て、御うれしく思ひまいらせ候、 御とうりうのうちに、こま/\しき御事も御入候ハて、 しょさいのやうにおほしめし候ハんと、 心の外に思ひまいらせ候、 めてたく、又やかて/\御のほりまち入まいらせ候、かしこ、
廿七日          よ□
さい相殿
   申給へ
《訳》
たびたび秀頼とわたくしのところへお便りを下さり、うれしうございます。 いく千年までもと、お礼を申し上げる次第です。
若狭(忠高)への御返事も言付けましたで、お届けくださいませ。 お祝いとして、金子を五枚お送りいたしました。いく久しくお納めくださいませ。

いつぞやは、わざわざお越しいただいて、嬉しく思いました。
御逗留のうちにこまごましいこともございまして、十分なおもてなしも出来ず造作な思いになったのではないでしょうか。
それは私の意図するところではなく、大変申し訳ございませんでした。
またやがてお越しいただけることをお待ちしております。

二十七日       よ□(よどまたはあこ)
宰相殿へ

《解説》
この書状を見ていると、江戸時代の間にどれだけの手紙が処分されてしまったのだろう…と心が痛みます。
それだけこまごまと気を遣った内容です。
きっと実際はいろいろな家でこのような手紙が何通もあったに違いありません。


補記 京極高次について
生年: 永禄6(1563)年
没年: 慶長14(1609)年6月4日

名: 小法師丸
字・通称: 宰相、大津宰相
戒名: 泰雲寺殿徹宗道閑、泰雲寺殿前三品相公徹宗道閑大居士

父:京極高吉(高慶)
母:泉源寺殿(浅井久政女)

当時若狭小浜城主だった。
母が茶々姫の伯母泉源寺殿で茶々姫の従兄にあたる。 妻が妹の初(常高院)で、姉が秀吉の室松の丸殿(龍子)。 その血縁から秀頼の親藩として扱われ、秀吉病没の際には特別に形見を与えられ、後見を託されていた。
実際に秀吉没後、秀頼の使者として朝廷へ参内・豊国社へ参拝など務めていたが、 関ヶ原合戦を機に隠居するなど京極家は豊臣家との関係に細心の注意を払わなくてはならなくなった。
しかしながら国松丸の養育、大坂から逃がされる侍女を引き受けるなど、出来る限りの配慮に苦心している。

嫡子忠高(熊麿)は女房衆の吉原殿(山田氏。名は崎/おな)の所生で初が嫡母となって養育していた。 関ヶ原合戦の際熊麿は大坂に人質に出された。
京極家は当初西軍として出発したものの、後に東軍に同心して大津城に籠城、城内で初や龍子ともに戦禍に晒され、 その後高野山の木食応其、お寧の使者孝蔵主、茶々姫の使者海津尼・饗庭局母子の尽力で講和が成立するなど 複雑な経緯をたどっているものの、熊麿の身は秀頼の血縁として助けられたという。

知善院について
滋賀県長浜市にある天台真盛宗の寺院。
もとは浅井氏の小谷城下にあったが、秀吉が長浜城を建てたときに鬼門の守護として移転したという。
リンク: 滋賀県観光情報:知善院
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