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# 俗説

特別編/茶々姫と煙草

「淀の方は日本初の女性愛煙家か?」

(文/明石の上様)

淀の方は日本で初めてタバコを吸った女性で、また大変な愛煙家であった、という説があります。
この俗説の大体の内容はこうです。

「戦国時代の終わり頃、鉄砲やキリスト教と同時に日本にタバコが伝わり、武士や商人の間で人気を集めた。 淀の方がタバコを好んだことも記録に残る。 彼女にタバコを勧めたのは秀吉である。 ところが秀吉は天下に向かって禁煙令を出した。 淀の方のヒステリックな言動は、タバコの禁断症状に原因する、という説まである」

淀の方にまつわる俗説の多くは、史料的根拠の無い不確かなものが多いのですが、果たしてこの「初の女性愛煙家説」はどうでしょうか。 タバコについての歴史の本や資料を、集められるだけ集めて、出来る限りの検証を試みてみました。


わが国初の禁煙令は、いつ出されたのか?

信頼に足る史料での初禁煙令は、徳川幕府のもと、慶長12年7月に出されました。 一方秀吉は慶長3年に没しています。 秀吉が禁煙令を出したというのは、明らかな誤りです。
(蛇足ですが、本当の初禁煙令を出した当時の将軍秀忠は、大のタバコ嫌いだったとか。)


秀吉も喫煙したのか?

淀の方より先に、まず秀吉が愛煙家だったという根強い俗説があります。 ですが、これを裏付ける同時代の史料はありません。 秀吉愛煙家説は後世の記録、特に明治時代、「煙草及煙管考」をはじめとする諸書で、盛んに言われるようになったといいます。 同時に「太閤張の煙管」なるものがよく知られているそうです。
いわく「秀吉は一時期江州水口(現在の滋賀県水口町)に住んでいて、煙管職人「権兵衛吉久」なるものに自家用のキセルを作らせた。 このキセルがいたく秀吉のお気に召し、『太閤張の煙管』として世間に広く知られるようになった」と。
確かに江州水口は、かってキセルの生産地だったそうですが、この煙管職人「権兵衛吉久」なるものの存在を裏付ける確実な史料は、見当たらないといいます。 地方の特産品の由来にありがちな、有名な歴史人物を絡めてみた史実的に疑わしい伝承の一つ・・、ではないでしょうか。 愛妾淀の方に煙草を勧めたという秀吉が、喫煙家だったことを証することの出来る、確実な史料は未だ無いのです。 「タバコの歴史」(岩波新書 宇賀田為吉著)でも、著者は「秀吉愛煙家説」に疑問をもたれています。


秀吉の時代に、タバコは日本に伝来していたのか?

一口にタバコの伝来といっても、
・タバコの種子、植物そのものなのか(植えられれば日本産タバコが出来ます)、
・あらかじめ喫煙用となっているタバコの葉のことなのか(外国で栽培されたものです)
分けて考えねばなりません。
種子の伝来については、慶長十年に長崎桜馬場に始めてタバコが日本に植えられたことが、確実な諸史料に記されています。 他にも諸説あるようですが、いずれも秀吉の死後かなり経ってのことなので割愛します。

では次に、問題の喫煙用タバコの葉が伝わった時期についてですが、このことについて、たばこと塩の博物館館長上野堅實氏が著書「タバコの歴史(大修館書店)」に、非常に興味深い考察をなされていたいました。 内容を要約すると、それまで喫煙用の葉自体は16世紀中には伝来していたという説が有力だったそうです。

その根拠の第一が、相国寺鹿苑院(現金閣寺)の代々の僧録司が書き綴った日記、「鹿苑日録(ろくおんにちろく)」という一次史料に、早くも天文6年に「烟草」という文字が現れていることです。 詳しく述べると「天文6年5月13日、宇治より白布来る、侍真(人名)とあい合わせてこれを買う、代は隻烟草なり」とあり、
宇治から来た白布を買い、「隻烟草」を支払った、と記されています。
また文禄二年(1593)7月9日、「晩来(夕方)宗与(人名)宅に往く、烟草、これを携う」とあり、 鹿苑院主が「烟草」を携えて宗与宅を訪れた様子がうかがえます。 文禄5年の記録にも何箇所か「烟草」の文字が散見するようです。
「鹿苑日録」は信頼に足る史料であり、この「烟草」が本当にタバコのことを指すのであれば、早くも16世紀前半にタバコの葉が伝来していたことになります。 ですが・・、すでに昭和13年に「日録」校訂者がこの「烟草」は「烟景」の誤読であったと明らかにしているのだそうです。 「烟景」は「五湖烟景有誰争」という句に由来し、「五湖」が「五箇」に通ずることから、「烟景」が銭「五百文」の隠語とされ、天文6年5月13日の条の「隻烟草」の「隻」も、片手すなわち五を意味するのだと。 つまり、五百文で白布を買ったよ、という他愛も無い内容で、タバコとは何の関係もなかったわけです。

もう一つは、文化12年(1815)に上梓されたタバコについての考証随筆「めさまし草」に、 「越後出雲崎天正十七、十八年の頃の検地帳を見つるに、たばこや何某といへる名を載せたり、されば古きことなりといひき・・」 とあることで 、 天正17年にはタバコ屋が存在していたと考えられていたそうです。
確かに「越後国三島郡出雲崎村御水帳」なる検地帳が残されているそうですが、面白いことにこの御水帳なるものは、宝暦元年(1751)に地所について揉め事があった際、江戸表に証拠として提出され吟味されたところ 「古水帳、当御代の物にても御座なく、第一、御高をも違い、その上、前後相揃い申さず、所々墨色等も相違これあり、用立ち申さず候」と申し渡されていたのだそうです。 要するに、宝暦の時代にすら、この検地帳は「こんな怪しいもん、証拠になるかよっ」コテンパンだったわけです(笑)。

「鹿苑日録」と「めさまし草」に記される「検地帳」が、これまでタバコの葉16世紀伝来説を裏付ける同時代の史料だったわけですが、この二つの証拠が消えたことで、 秀吉の存命中にタバコが伝来していたといたことを証する確かな証拠が無くなってしまうのです。
18世紀に入ってから「煙草考」や「大和本草」など、「天正伝来説」を唱える文献が現れたけれども、これらはいずれも一世紀以上も前のことについての、しかも、「かってこれを古老に聞く」といった不確かな根拠に基づいた記述であり、 このことについて、史料的な価値はありません。
そして、実はそれ以前の17世紀中の史料では、天正説は見当たらず、そればかりか延宝三年(1675)の「遠碧軒随筆」では「タバコは日本にては関が原の陣より後のことにて」、天和三年(1683)の「大和事始」では「慶長十年ころほひ、始めて日本に渡る」、元禄五年(1692)の「本朝食鑑」巻の四では「煙草、もとより南蛮国より来たりて、本邦に種を移すこと、六、七十年に過ぎず」と、皆煙草の伝来を17世紀に入ってからとしているのです。
以上のことから、秀吉存命中にタバコが伝来していた、という説も、大いに疑わしいのではないでしょうか?
かなり回り道をしてしまいましたが、 話を淀の方に戻します。


淀の方は喫煙したか?

淀の方はその生涯において、ただの一度もタバコを吸わなかったかと言われると、そうは思いません。 慶長10年以降、日本で栽培されるようになったタバコは国中で爆発的な人気になったといいます。 イギリス商館長コックスは「男も女も、そして子供までもがこのハーブを吸うことに夢中になっているのは、見ていて不思議だ。しかもそれが始めて用いられるようになってから、まだ十年にもならないのだ(元和元年8月の記)」と驚いているぐらいです。 そんな時代と、淀の方の晩年は重なるのです。
そして、この時代は「百害あって一利なし」が常識の現代とはまるで正反対で、たばこは「万病に効く薬」と信じられていました。 淀の方が「薬」としてタバコに手を出していたとしても、不思議ではありません。 でも、それはその時代に生きていたほかの高貴な女性(北政所や前田利家室など)の誰にも言えることです。

しかし、「淀の方が物凄いヘビースモーカーで、秀吉の出した禁煙令のために禁断症状に苦しみ、ヒステリックな行動を取るようになった」などという俗説は、まるで史的根拠の無い、悪意の産物と言えるでしょう。 同時代の史料に彼女が喫煙していたなどという記述はなく、秀吉も禁教令は出せども禁煙令など出してはいません。 歴史の問題以前に、淀の方は秀吉の死後17年を生きたのです。たばこの禁断症状というものが、そんなに長くは続いたりするものですか。 ヘビースモーカー説の出所は確認できませんでしたが、同時代の史料ではないことはおろか、17世紀中の史料にもそのような記述は無いはずです。 おそらく彼女が講談などでひどく貶められはじめた江戸中期〜後期、あるいは坪内逍遥の歌舞伎での悪鬼のような「淀君」が大衆に受けていた明治時代に書かれた書物からの引用ではないでしょうか。

本当の女性第一号喫煙家は誰なのか?

岩波新書「タバコの歴史」や他のいくつかの本では、長崎丸山の遊女であろうということでした。 南蛮人の相手をしていた遊女たちが、元気になれると信じて、タバコなる薬の手ほどきを受けたというところでしょう。哀しさと儚さ、美しさを感じます。 歴史のはじまりは、このような名もなき民草だったというのが、真実なのではないでしょうか。


参考文献

  • 上野堅實(たばこと塩の博物館館長)『タバコの歴史』大修館書店   (・・・お勧めです!面白かった!)
  • 宇賀田為吉『タバコの歴史』岩波新書
  • 大溪元千代 他『ちょっといっぷく たばこの歴史と近江のたばこ』サンライズ出版

  • 〔ひとりごと〕
    明石の上様、ありがとうございました。
    特に近年社会的に煙草が倦厭されるようになっているため、 この俗説がこれからも明確な意図を持って利用されないとも限らないと、改めて思いました。 読み返させていただくと、様々な角度からこの説を検討されており、他にはない貴重な文章です。


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