# 近江浅井氏
浅井鶴千代
▽ 田屋城跡(高島市マキノ町森西)をのぞむ
生年: 不詳
没年: 慶長七(1602)年二月十七日
称: 海津殿、海津尼
戒名: 栖松院殿香甫宗因大禅定尼 …『東浅井郡志』
父: 浅井亮政
母: 浅井蔵屋
同母弟:
政弘(新四郎)
※ 異母兄弟は多数。一覧ページ参照。
▽ 田屋氏館(長法寺館)跡(高島市マキノ町沢)
夫:
浅井明政(通称は新三郎、受領名は石見守とも/生田姓→田屋姓→浅井姓)
子:
海津局(浅井政高妻)
饗庭局(内藤新十郎長明母。茶々姫の姥)
政高(養嗣子/出身は田屋氏)
浅井本家の血を引く嫡女
▽ 宗正寺(高島市マキノ町海津)
同母弟政弘の死後、鶴千代は唯一第一夫人蔵屋の血を引く娘として、田屋氏出身であった明政を夫として迎え、明政は浅井家の養嗣子となりました。
夫明政が海津(旧高島郡マキノ町)出身であり、海津城の城主であったため「海津殿」と称されたといいます。
鶴千代は明政とともに、連名で寄進を行うなど、夫婦力を合わせて浅井家の後継者としての仕事に向き合っていたようです。
但し、結果的に後継者は鶴千代の“弟”にあたる久政になったため、鶴千代は浅井家当主夫人となることはありませんでした。
しかし、明政と久政の間に後継者争いがあった様子はなく、久政が家督を継いだ後も明政は「大殿」(“大殿”は先代当主の意)と呼ばれ敬われていたらしく、
その微妙な立場を保つ上で、鶴千代が何らかの役割を持っていたであろうことは想像に難くありません。
宗正寺の尼
近江宗正寺(高島市マキノ町海津)では鶴千代が入寺し尼になった記録が残されていますが、
おそらくこれは小谷城攻防戦において、明政が戦死した後のことではないかと推測されます。
なお、この寺には後年豊臣家の老女として辣腕を振るう孝蔵主の出身寺であり、彼女との接点も偲ばれます。
▽ 大津城跡(大津市)
大津城講和の使者
その後、どのような経緯でかは明らかではありませんが、娘二人が仕える茶々姫のもとに身を寄せたようです。
慶長五(1600)年の関ヶ原合戦の直前に行われた、大津城講和において、
大津城主であった京極家に残る史料では、茶々姫名代を務めた侍女の中で、「海津尼」という女性が登場します。
一般にこの女性の出自は不明とされていますが、鶴千代は「海津」の名を称し、かつ尼であったことから「海津尼」というのはこの鶴千代をさすのではないかと思われます。
鶴千代は娘饗庭局とともに茶々姫名代として、寧の名代として参加していた弟子の孝蔵主、高野山の木食上人とともに京極家の和睦を成立させ、
初(後の常高院)や龍(松の丸殿)を救い、龍を京都西洞院邸まで送り届けたといいます。
この二年後、慶長七(1602)年に鶴千代は病没しました。
少なくとも80歳位で、かなり長命だったようです。
略年表
天文二(1533)年
二月二十七日、富永庄内馬上(まけ)郷(現伊香郡高月町大字馬上)の一段小を竹生島に寄進し、
夫明政の武運長久を祈る(竹生島文書)
天文九(1540)年〜十一(1542)年
田川荘河毛(かわけ)郷内の田地を六回に分けて買い取る(黄梅院文書)
慶長五(1600)年
九月十四日、娘饗庭局とともに茶々姫の名代として大津城講和に参加する。
慶長七(1602)年
二月十七日、死去。栖松院殿香甫宗因大禅定尼と謚される。
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