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# 近江浅井氏

浅井直政

生年: 不詳
没年: 天文九(1540)年六月

通称(字): 井三郎(『竹生島文書』浅井慶集・直政連署寄進状より)、清三郎(異伝)
戒名・院号: 不明


父: 不詳
母: 文和慶集尼

兄弟:

  • 敏政(同母弟という)
  • 清政(敏政に同じ)
  • 定元?
  • 秀国?
  • 子女:

  • 蔵屋(亮政妻)
  • 亮政(養嗣子。有力一族、浅井蔵人直種の子)
  • 政信(大和守)?
  • 時政?
  • 赤尾教政(駿河守)?
  • 千代鶴女(六角義久妾、浅井久政生母)?

  • 湖北の雄へ次代を託す

    亮政の妻、蔵屋の父である直政。彼は自らの跡継に傍流の亮政を婿養子に迎えました。 これは直政に男子がいなかったためといわれます。 しかしながら、直政に子や弟とされる人物がいなかったかというと、どうも数名存在していたらしいという話もあるのです。
    養子である亮政の実父は蔵人丞直種といい、直政にとっては叔父にあたる人物であったとされます。 当時の史料を探れば、直政の名前よりもむしろこの直種の名がいくつも目に付きます。 これを見ると、直種が浅井家の中でも大きな力を持っていただろうことが容易に察せられるのです。
    なお、直政は早々に亮政へ家督を譲り、自らは亮政の補佐に当たっていたようです。
    戦国の匂いを嗅ぎ取っていただろう総領直政が迎えた婿養嗣子が、勇猛果敢な亮政であったこと、 またその出身が浅井一族の中でも蔵人家であったことは、 単純に直政に後継の男子がいなかったとは言い切れないのではないでしょうか。


    略年表

  • 明応九(1500)年

  • 三月十二日、母文和慶集尼とともに、竹生島へ高島郡内海津庄や川上庄などの土地六段三十六歩を寄進する。 (『戦国大名浅井氏と北近江―浅井三代から三姉妹へ―』)
  • 明応十(1501)年

  • 二月九日、丁野の尼寺陽徳院(浅井一族の女性が多く入寺していた寺)の住持・総充(おそらく浅井一族の女性)とともに竹生島へ浅井郡田河庄丁野の田地三段を寄進する。
  • 天文九(1540)年

  • 六月、死去。 六月二十日、本願寺、直政死去につき浅井家へ下間頼順(「周防」)を遣わし、亮政へ香典五百疋を送る。(『証如上人日記』)。


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