# 近江浅井氏
尼子馨庵
生年: 明応九(1500)年
没年: 不詳
称:大方殿
戒名: 馨庵、寿松 …徳勝寺授戒帳
父: 尼子某(近江尼子氏)
養嗣子:
久政? …馨庵実子の説が一般的だが、六角義久の庶子という説も。生母は浅井千代鶴という。
子女:
高政? …諸家系図纂。長子であったため、はじめ亮政の後継候補であったというが夭折(大永六年四月九日没)。子孫が尾張浅井家とされるが、異説あり。
久政?
松市(三田村定頼妻、法名:性隆/母は馨庵) …徳勝寺授戒帳
壽慶(浅井忠種妻、母は馨庵) …徳勝寺授戒帳。忠種は亮政の実兄政種の子
乳母: 宗寿 …徳勝寺授戒帳
略歴
尼子氏は源氏、佐々木京極氏の一族です。
馨庵との婚姻は、湖南の脅威六角氏との境界に当たる犬上郡を領する尼子氏の勢力を引き入れるためのものであったろうといわれています。
長政の時代まで「大方さま」と敬称され、浅井氏に暗然たる力を有していたと言われています。
おそらく馨庵は側室・妾というよりも正妻に近い扱いを受けていたのではないでしょうか。
押しも押されぬ第一の妻である蔵屋との間も、共に仏事を行うなど対立していた様子は無く、至って穏やかでした。
馨庵は蔵屋の立場に常に気を配る信心深い女性だったのでしょう。
最初馨庵と号し、後に寿松と号を変えています。
(※ 下記の永禄九年には寿松と名乗っています。時に六十七歳。)
略年表
天文四(1535)
十二月十五日、徳勝寺において戒を受け、「寿松」と戒名あり(徳勝寺授戒帳)。
天文十五(1546)年
二月二十四日、徳勝寺において戒を受ける。「寿松」と戒名あり(徳勝寺授戒帳)。
天文二十三(1554)年
十一月一日、徳勝寺において戒を受ける。「寿松」と戒名あり(徳勝寺授戒帳)。
永禄六(1563)年
五月十九日、竹生島に鉄灯篭と燈明田四段小を寄進する(竹生島文書・麻蘇多神社鉄灯篭)
永禄九(1566)年
竹生島に弁才天像一体を造立し、翌年弁才天の祭礼・蓮華会の頭役をつとめる(竹生島文書)
永禄十(1567)年
蔵屋と共に竹生島小島権現を再興する(小島権現棟札)
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