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# 近江浅井氏
織田市
▽ 西光寺内柴田勝家・お市の方墓所(福井県福井市左内町)
生年: 天文十六(1547)年 …柴田勝家始末記(生まれは末森城か/小和田哲男『近江浅井氏の研究』)
没年: 天正十一(1583)年四月二十四日
名: 市 (細川忠興軍功記、織田家雑録、柴田勝家始末記、祖父物語、翁草)、いち(渓心院文、、浅井三代記、賤嶽合戦記、真書太閤記)
称: 小谷御方(秀吉事記、太閤記、新撰豊臣実録、増補筒井家記)、小谷の御方(北畠物語)、小谷之方(柴田勝家始末記)
異名: 秀子 …織田家系譜
戒名・院号:
自性院微妙浄法大姉 …自性院(福井県福井市西木田)
自性院照月宗貞 …
自性院殿微妙浄法大姉 …柴田勝家始末記
照月宗貞 …諸寺過去帳(高野山過去帳)、江州浅井家之霊簿
照月宗貞禅定尼 …浅井家之霊簿、十竹斎筆記
東禅院殿直伝貞正大姉
▽ 自性院市供養碑
位牌:養源院(茶々姫が市の十三回忌に建立したものという/増補筒井家記)、西光寺
墓所:西光寺(福井県福井市)、自性院(供養塔/福井県福井市)、養源院(供養塔/京都市東山区)
菩提寺:
自性院(福井県福井市)
幡岳寺(滋賀県高島市)
肖像:
高野山持明院蔵(現在は高野山霊宝館に)
…最も有名な肖像。市の肖像はほとんどこれが元になっています。
養源院蔵
…茶々姫の画像として有名な肖像。ただし、この肖像の軸には「浅井長政卿室之像歟、未詳、寛政十一巳未年八月僧正亮天修補之」と記載があり、寛政年間には浅井長政室=市の肖像として伝わっていることが分かります。
JR河毛駅前浅井長政夫人市像 ▽
父: 織田信秀
母: 土田御前?
同母兄弟: 信長?、信行?、信包?
〔異説〕 …以貴小伝(渓心院文書)
父: 織田與康(織田信秀の弟信康の子) …織田系図
〔異説2〕
父: 織田信光(織田信秀の弟)
夫:
浅井長政
柴田勝家(幡岳寺殿壽山勝公大居士、摧鬼防殿台岳還道大居士)
(※ 市は当時としては晩婚だったため、長政以前に夫がいたのでは、という説もあります。)
子女:
万福丸? …名古屋市史浅井系図
茶々姫
初
江
喜八郎長春 …名古屋市史浅井系図
正芸(長秀、直政/幼名は万寿丸、虎千代丸、幾丸)? …但、督と同年の誕生のため、実母は市ではない可能性が高い
(略歴 …加筆中)
浅井長政の妻として
長浜市役所浅井支所前浅井一家の像より ▽
戦国に比類なき絶世の美女として有名な市。
そのドラマティックな生涯のために、彼女の実態はすでに伝説化、理想化が進み話が大きくなっている部分は否めません。
実際、有名なあの市の肖像ですら、市個人の肖像というよりも絶世の美女としての理想化がみられると言われています。
しかしながら、市本人が美しい女性であったことは間違いないのでしょう。
肖像画に見える着物の着こなしから、洒落た女性であっただけではなく、非常に長身の美女であったとも言われています。
市が長政に嫁いだのは、織田家の当主であった兄信長の政略によるものでした。
この婚礼の時期については永禄四年(宮島敬一氏、太田浩司氏)、七年(『浅井三代記』)、十年末~翌十一年四月(小和田哲男氏、福田千鶴氏など)の大きく分けて三つの説があります。
現状では永禄四年説と永禄十一年四月説が拮抗しているように思います。
後に織田家と袂を分かつ浅井家ですが、市と長政との夫婦仲は、非常によかったと伝えられています。
これは、長政が織田家との手切れを決断しても、市を織田家には返さず、その後初や督が生まれていることから言われているものです。
一方で長政が市の美貌に心を奪われて市を手放さなかったという見方をされるときもありますが、実際は、婚礼のとき付家老(「女佐ノ臣」…『浅井三代記』)藤掛永勝(三河守)など、織田縁の人間が多くこの輿入れにつき従い浅井家に入っていたものと思われ、
彼らの存在を背景に市は浅井家のなかでも少なからぬ影響力を持っていたと思われます。
よって、市が織田家に戻らなかったことは市の意思が多分に含まれていたのではないでしょうか。
よって、夫婦仲がよかったという説は十分に頷けるものだと考えます。
小谷落城の際、市は夫長政や陣頭指揮を執っていた羽柴秀吉の説得によって小谷を離れ、織田家に帰還します。
しかしこのとき、母子は裸足で逃げ出すなどほうほうの体であったといい(武功夜話)、市がぎりぎりまで踏みとどまっていた様子がうかがわれます。むしろ、最期まで小谷を離れるつもりはなかったのでしょう。
小谷落城の際、長政の長姉昌安見久尼のもとへ逃れたという話も残り、実際は城内にいたというのではなく、三姉妹と共に昌安のもとに避難していたのかもしれません。
※ なお、金ヶ崎の戦いで浅井長政が朝倉氏に味方し、信長を裏切る際、市が小豆の両端を結んで兄信長に送り「裏切り」を伝えたとう話がありますが、これは後世に創作された話の一つです。
織田信長の妹として
市が織田家に帰還したのちも、信長の近くには帰らず、兄信包の庇護を受けたようです。
このことから、信包は市と母を同じくする兄であったのではないかと考えられています。
実際には、信包が管轄していた清州城、もしくは信包の居城であった伊勢上野城に長く身を寄せていたのではないかと言われています。
柴田勝家の妻として
柴田神社境内お市の方像 ▽
しかし市が信長の近しい人間であることに変わりはなく、信長が本能寺の変で変死した際、織田家の要としてその去就に注目が集まりました。
結局織田家の家老であった柴田勝家と再婚し、三姉妹と共に越前北庄城へ移り住みました。
これは信長の後継候補の一人であった織田信孝の勧めによるものであったとされていますが、
このとき同時に市を妻に迎えたいと望んでいたと言われる羽柴秀吉もまた、実際はこの婚姻に賛成し、推し進める立場であったことが分かっています。
しかし婚姻から間もない天正十一(1583)年、勝家は劇的に力をつけた羽柴秀吉に敗退し、北庄城に攻め込まれます。
主家織田家にとって象徴的な存在であったお市に対し、勝家は城外へ逃れることを勧めたものの、
市は「自分は夫長政とともに死ななかったからまたこのような目に遭うのだ」といって拒否した話が北庄城に仕えた老女の話として残っています。
そして、勝家と勝家の九人の妾たちと共に自刃して果てました。
享年は三十七歳であったと言われていますが、見た目は二十三、四歳でも通るほど若く見えたといいます。
『柴田退治記』にはかの有名な「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」という辞世の句が記されています。
なお、wikipediaによると
三重県伊賀市には市が北庄城から落ち延び慶長四(1599)年まで生きたという伝承が残っているそうです。
略年表
(製作中)
天文十六(1547)年?
末森城にて織田信秀の娘として誕生か
永禄四(1561)年? 永禄十一(1568)年四月?
織田信長の娘分として浅井長政に嫁ぐ
永禄十二(1569)年
茶々姫誕生か
元亀元(1570)年
初誕生か
元亀四・天正元(1573)年
督誕生か
八月二十六日、小谷城を脱出し、織田家に帰還する
九月一日、浅井長政が自害し、小谷城が落ちる
天正十(1582)年
本能寺の変が勃発し、織田信長が変死する。
清州会議が行われ、市が織田信孝・羽柴秀吉らの勧めで柴田勝家に嫁ぐ。
天正十一(1583)年
四月二十四日、北庄城にて柴田勝家らと共に自害する
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