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# 近江浅井氏

昌安見久尼

▽ 実宰院昌安見久尼墓(長浜市平塚町)

生年: 天文八(1539)年
没年: 天正十三(1585)年六月二十九日

名: 阿久
戒名: 昌安見久尼

肖像: 実宰院蔵昌安見久尼木像  …阿久の死後、茶々姫によって追悼のため造られたといわれています。

父: 浅井久政
母: 某女(亮政の侍女とも)



阿久の出生

▽ 実宰院(長浜市平塚町)
父は亮政であったとも伝わりますが、おそらくは生母が亮政の侍女であった関係で阿久が亮政の養女となったのではないかと思われます。
亮政の死後、母と共に平塚の実宰院(当時は実西庵)に移り住み、母の死後庵主となったといいます。

寺伝に残る阿久

寺伝によれば、彼女は身長が五尺八寸(176cm)あり、体重が二十八貫(105s)の大女であったため、嫁入りをあきらめたといいます。 そのために天文十一(1542)年出家し、小谷城の南4qの平塚村に庵を建てて移住し、実宰院の開基者となったとされます。 しかし、実際彼女が出家したのはまだ六歳の時であり、出家の理由はそのままに受け入れるのは難しいところがあります。
彼女の見た目に関してもあまりにも大袈裟な記述ではありますが、長身が多い浅井家の娘である彼女が長身であったことからこのように伝えられたのかもしれません。 また、阿久が三姉妹を保護(後述)したことから、懐の広い女性であったということを伝えているのかもしれません。

双子の梅

実宰院境内には花一輪に二個ずつ実をつけるという双子の梅があります。 これは、阿久が出家するときに弟の長政が姉に贈ったものと伝えられています。
ただし長政の生年は天文十四年で、阿古が出家したとされるのは天文十一年のため、これも史実とは言い難いものがありますが、阿久と長政の姉弟にこのような交流があったことを偲ばせる伝承です。

阿久と三姉妹

▽ 実宰院浅井三代供養塔(左側) …右側は昌安見久尼墓
現在実宰院に安置されている阿久の木造は、茶々姫によって造られたものと伝えられています。
寺伝によれば、小谷落城の際、長政は三姉妹を実宰寺に預けたといいます。 しかし、他の史料から小谷落城時の三姉妹についてはいろいろな説があり、この伝承はほとんど知られていません。 一部の研究者の方は、この伝承は実は北庄落城の際、身寄りのなくなった三姉妹を阿久が一時的に引き取ったものが誤伝したのではないかと解釈する方もいます。

阿久と秀吉

後年、実宰院では秀吉によって庵料として五十石の田畑を与えられ、三霊殿を創営して浅井三代を祀ることを認められました。 この五十石の庵料は江戸時代に入っても認められているため、秀吉によるこの処置は史実であったことがわかります。
この秀吉による実宰院への扱いは茶々姫との関係を暗示しており、小谷もしくは北庄の落城時、阿久と三姉妹に接点があった可能性は高いと思われます。



略年表

  • 天文十五(1546)年

  • 二月二十四日、徳勝寺において戒を受ける。「見久 平塚実際庵」とあり(徳勝寺授戒帳)


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